ゴダール「選ばれた瞬間」

http://www.ifjtokyo.or.jp/culture/cinema_j.html#Paini
居酒屋で、2時間ほど眠れたので、一度、帰って、シャワー浴びて、行く。「死の病い、居留地にて」の後も、同様に、事情こそあれ、ストローブ=ユイレを見に行ったのだった。ずっと暗がりのなかで作って来たもので、やはり本能的に光りを求めるのだろう。
 image の歴史。女、戦争、現在…。
 ああ、また「映画史」みたい。4時間半にも及ぶ「映画史」本編の方が、速度を感じたのは、しかたないことか。形式的時間と質料的時間とは、どのように関係するのだろう。ゴダール自身は本作を「生に満ちた」としている。が、圧倒的に「映画史」本編の方が、生に満ちている。要約も削除も不可能な作品が、「映画史」であるのか。
 おそらくそうだ。結果的に「油田」では直接は使用できなかったパウンドのカントーズも、いまだ全訳は出ないようだが、すでに翻訳されたものと原文とをできるかぎり目にするかぎりでは、あれもまたどの詩編というわけにはいかない。それは、作品それ自体が、いわば生そのもののように、有機的に構造化されているからだ。
 ゴダール「映画史」やパウンドの「カントーズ」のようなモンスター的作品において、生と形式はどのように問題化できるのだろう。

まあ、なんにせよ、その量だろうが質だろうが、そこにおけるeffortなしにeffectはない。