18c/19c

なんか、バルザックと19世紀って図式というか関係を作ったら(古典的にバルザックとその時代でもいいが)、バルザックさんは1799年生まれで、1850年没されているのだが(しかしウチの親父と同じく51で死んでるのか)、これはアタリマエ、19世紀前半。で、これもアタリマエだが、バルザックが吸っていた時代/世界の空気とは、18世紀である。これは、やばい。18世紀。大フーコーのおかげさまで、もう、むちゃくちゃ膨大な研究がなされている。まあもちろん、それを踏まえるなんてしない、とはいえ、大変興味もあるし、ある程度は参照せざるをえない。
うーむ。まあゆっくりやるか。哲学史界の偉大な革命家イマニュエル・カントは1724-1804の人生。王様ヘーゲルは1770-1831の人生。バルザックとかぶってるし。
 なぜ18cとの関連になったかというと、一年振りに図書館いって、バルザック関連に併せてトドロフの「バンジャマン・コンスタン」を借りたせいだった。この本、いずれ購入しなくてはならない。で、そのなかに、「アドルフ」関連でおもろい文もあるのだが、コンスタン(1767-1830)が30才で書いた本「政治的反動について」でカントを揶揄ったら、カントが怒って、同年「人間愛から嘘をつく権利と称されるものについて」を発表するとあった(トドロフ、pp.190-194)。カント?と思って、冷静になってしまって、19世紀と18世紀って、とりあえず地続きだったことwにぶつかったからだった。まあ、もう10代のころから興味のある時代であったんだが、あくまで断片的・趣味的?にしか押さえることのできなかったアノ時代。しつこい付き合いとなります。「近代」。
 
 モデルニテとモダニズムモダニズムはとりあえず20世紀)とでは、ぼくはモデルニテの方に長く興味があった。というか、卒論の時にそのように設定してしまい、実はいまでも同じ設定である。だから、ずっと「歴史」好きなんだ。といまあらためて自分の興味を再確認。
 
 図書館について書こうと思ったが長くなるので停止。

 夏のテキストはピエールさん発案で「サラジーヌ」。外からの動因で動いておりますが、こうしてみると、またリンクするなあ。
 
 両性具有についての話しもあるし。フーコー/エルキュリーヌ・バルバン/パニッツァもある。
 「ふたなり」で、フィードラー「フリークス」もある。
 
 主題ねえ。ダンスにとってはほどほどにしないと、本末転倒な気もするが、でもテーマがあった方がやりやすいのは事実。フレームになるからだ。幸い、お勉強は好きだ。

 たんに踊れというひともいるし、たんに踊ってもいいと思う。だが所詮、分裂から逃れられないにしても、統合はしたくなる。ぼくにだって、自我はあるw それに、快楽への欲望もある。踊る欲望も知ってるが、知る欲望も体験してしまっている。だから、こうしている。yくんとの話しじゃないが、ダンス/ダンサーへの神話的なアプローチがおそらくは受容者=観察者のなかではまかり通っているのだが、それはぼくは断固として否定する。舞踊家だって、人間であるw  特別なことをやってるわけではない。ただ、努力してるだけだ。わたくしなりに。
 他方、そんな勉強するんだったら、学者になればとの話しもある。それはそれでトラウマもあるし、やはりいまの状態が自分にとっては、健康でいられる。踊らなければ気が狂いそうになるし、勉強しなけりゃそれもまた気が狂いそうになる。そも狂気との闘いが、生ではないか?という今日の線引き。