ゴッホ/コナトゥス/狂気

ゴッホ展に行ったら、信じられない行列。すぐにあきらめる。美術館の混雑は、満員電車よりも嫌いであるからだ。これがまあどうしても今後開催されそうにないものなら、我慢するが。しかし、ピカソが人気あるのは分かるが、そしてゴッホが人気あるのも了解はできるのだが、そのゴッホの人生を考えたら、そのあまりの、なんというのか、まあやっぱりひどいwと思うのだが。むろんここには、「美術愛好」「美術観賞」の社会的機能というか、社会的行為としての「美術観賞」の問題も入ってくる。いやまあ大衆だからだめとかそういうことではない。でも。
まずは、ツアーらしき群れがいたわけだ。旗を持ったガイドさん。これって。「観光」なんだ。うーむ。絶対にまちがっていると思われるのは、そのツアースケジュールだ。終了間近にツアーを組むというその無神経。開催まもないころだったら、ここまで混雑することもないはずだ。
 この「美術ツアー=産業体制」、美術館自身の問題である。そういうことを許すということは、たんに経済効果を狙うだけのためにゴッホを展示すると見なされることになるということが、意識されていない。むろん経済効果は必要だろうし、それ自体が悪いとはいいがたい。そういうこといったら、美術館自体、ゴッホの絵画自体、歴史の闇に埋もれていくからだ。
 まあこんなの「常識」だーとか、かつて「常識イデオロギー」を敵視していた私がいうとはね。

この事態をつまらぬ私の個人的文句で終わらせないためには、どう考えればいいか。

まずは対象がゴッホであるということ。ゴッホに固有の問題というのもある。この「狂気」のひと。ヘルダーリン、ネルヴァル、ニーチェアルトーと並び称されるゴッホ。音楽でいえばシューマンか。いま思うが、音楽家で「狂人」が思い付かない。画家、詩人、哲学者と比較対照すると。
 舞踊だと、ニジンスキー。それで、「狂気」とはなにかはともかく、またいま思うのが、大野一雄である。大野先生はたしかに「狂気のひと」ではあった。しかしそれは先日の記事での「猛り狂う老境」というが正確である。
 いま挙げたゴッホからニジンスキーの系譜は、いずれも死に方/晩年が、不遇というより「呪われていた」。
 呪詛の力?擬態ではなく、「本気で」呪うということ。これはなにか?
 「承認をめぐる闘争」というレベルではない。それはやはり「崇高」ということなのか。
イッチャッタという言い方もあるが、イッチャッタひとは多い。イッチャワナイひとも多い。少ないのは、イッチャオウがイッチャウマイが、つまり「狂気」か「正常」(しかし古くせえな。)かではなく、ある異様な努力effortということ。
cf.力能の度ー欲望ーコナトゥスー努力(ドゥルーズスピノザ」:概念集「力能pusissance」の項)…

この努力問題にくらべたら、美術館の制度論はやはり二次的ではある。

「歴史に回収される」という。私も使う。むろんそれをいうのは、回収不能なもののレベルがあるからだ。
不可能なもの…

 狂気、コナトゥス、不可能なもの、となると、それはやはり言語以前のカオスという領域に触れざるをえない。
 いまセールとつきあっているせいでもある。混合体le corps mele。

セールの「五感」については、中原紀生さんという方が、その論考において触れておられる。

 http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/ESSAY/TETUGAKU/22.html
サイト・ORION http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/

しかし、セール、読むときは、文体の運動に身を任せればふむふむと進めるのだが、いざノート化するとなると、実に大変であった。