バロックダンス、コラボレーションについて

昨日の稽古で、ピエール・ダルドさんが、バロックダンスのノーテーション本を見せてくれた。
いやー、美しい。導線の紋様。こういうの見ると、バレエやればよかったと思うが(といってもバロックダンスはプレバレエであって、バレエではないのだが)、どう考えても、九州の地方都市で男の子がバレエやるのは無理だったwって、「リトルダンサー」みたいな話w

Principes de choreographie,Ed.Minkoff,Geneve,1980 ISBN2-8260-0704-9

でもま、研究はこれからもできる。

あ、あらかじめ告知しますと、「ザンビネッラ」で使用・挿入される予定のバロックダンスは、いかにコラボレーションが難しいかの一例となりますので、あらかじめご了承くださいw(怒らないでくださいw)

 うーむ。しかしまあコラボレーションって、とくに、共通言語が少ない場合、本当に難しい。どちらかがリードするしかなくなる。「死の病い、居留地にて」の時は、私が振付・演出?に回ったが、今回、ピエールさんに対抗贈与したくとも、力及びませんぬw

 いや、でもありがちな決裂コラボレーションwにだけはしたくないw
どう切り抜ければよいのか?
 あらかじめ、深く反省してw、いかにこの機会を学習するかが、問われている、と考え直さなくてはならない。

 というか、このあたりの葛藤や不安のプレッシャーで、押しつぶされて、結果、偶然もあり、「自由」とはなにか?という根本問題に、押し出されたんだなw

 しかし、かなり、本当に難しい。ある意味で、ヨーロッパと等身大で向き合うということを体験しているのだろう。

 しかし、「決裂コラボレーション」と書いたが、それはある意味で対称的でもあるw
30分ずつのソロ、二部構成というのが、まあみんな笑うコラボレーション形式だが、これは時間的には対称的だw なんて、だめか。
 
 そうか、ある共通の土台をもとにはじめればいいのか。って、それではじめたのだったが。

 直接、いまの状況を考えると、混乱を増す。
 置き換えて考えなくてはならない。

 あるいは、より一般的な問題として抽象化すること。
 たとえば、コミュニケーションとはなにか。
 ひとつの上演が、パフォーマーと観客、スタッフ、空間と時間の共有=分かち合いによるコミュニケーション行為の場であるという、基本的な点の確認。
 
そこから、また個別の問題に、回帰していけばよい。のかもしれない。いや、それしか、やはりないだろう。

 そして、その個別の問題とは、要は紛争のネタでもある。なんというのだろうか。
問題的な要素。非対称性?
 
 完全な「相互理解」は対称的なのだろう。互いに、相手の認識を、把握しあうということ。むろん、これは理想論である。
多くの場合、問題的要素(というか、「問題」か)が、種となり、互いの許容範囲の限界値を超えたら、決裂であり紛争になる。
 それでも、よりよい対話を求めて、「相互理解」へのたえまなき努力を、双方が惜しまなければ、アウフヘーベンとなる。「和解」。
 ちなみに「妥協」というのは、どうなのだろう、辞書調べていないが、「取引」的あるいは「契約的」な含意があるように思われる。対して、「和解」は、そうした契約的な関係を超えた、利害関係を超えた、肯定的な感情(「友情」とか「友愛」とか)に基づく関係である。それを倫理的な関係とでも呼べばいいのだろうか?

 そうか、幾何学をモロ導入したのが、スピノザだった。

ま、この方向で、解決でき、上演が、よいものになれば、幸せだ。
 不幸が訪れないための努力。うーむ。