コンテクスト:モダニズム

モダニズムの指標がどこにあるか?これはまあ、学術的なテーマですからねえ。でもアマチュアなりに、あるいは現場においてもこのへんモロ重要になるんで、つまり自分がなにをやってるかの確認=認識なんだが。

だいたい、モダニズムってなに?
ジョイスとかパウンドとかだよね。とりあえず。説明省いて、例証するとすれば。
じゃ、その連中、つまりいわゆる「モダニスト」がどこから来たか。
直接的にはボードレールなりクールベなりフローベール。19世紀フランスにおけるモデルニテの「発明」。

で、かのひとたちがなにをやったか。よくいわれることは「アカデミズム」への反逆。

つまり、反逆、反逆!

公認されたものを、つまらないと思うものが、それを茶化し、むにゃむにゃ考え、なにかを「発明」する。
そうして、その発明が、ある場合には、パラダイムの裂け目となり、それまでとは異なる領域を作って行く。
そしてまたその「新しい領域」はまたそのようなものとして、認知され、公認され、…新たな保守=メインストリームとなる。

で、私がある領域内のこうした力学=政治学が、あまりおもしろくないといったのは、それがそんなものだからだ。つまり、それはその領域(帰属先領域)を前提としている。(ちょっと指示代名詞が多すぎるか。でも説明、めんどくさい。あ、ここ重要。説明のめんどくささ。)
(ここ、トマス・クーン問題といえるかも。パラダイム変換論。)


たしかにこうなると、文脈の問題だ。→コンテクストをどこに取るか。

じゃ、なに?ってことだが、それはなにをやってるのかということ。行為。
で、そのなにをやってるかってことは、なにと闘ってるかということに、なる。
(行為→政治)

で、その闘いがなんであるかということ。ここで、また「承認をめぐる争い」に戻るかどうかは、これはやはり違う。

こう言い換えることができるかもしれない。

どこで闘うか。
なにと闘うか。

文脈との闘い。
(行為のコンテクスト)
時代のメインストリーム。「時代精神」への態度。