deepen,diversify,and Downward Ho
今日もまた遅々とした歩み。一歩が一年。
あらためて、足=ステップ。
海より深く。
あと、やっぱり多重化。多層化。
一様であることは、コンセプト的に求められるのはいい(ミニマリズムとか「単一性」とか)。
しかしそれに異化がかけられないままだと、たんに習慣=ハビトゥスの運動になってしまう。
そうして、ダンスの場合、それは日常の身振りとかを採集して「リアル」を追求ということには至らず、それまで慣れ親しんだダンスコードの再現に終わってしまう。これは自戒を込めて。
とはいえ海より深く反省したところで、本当に異化をかけないと、死にはしない。死なないとだめなんだ。仮死、と冷静にいえばそうなるけれど、いやでもやはり一度、どころか、幾度も死に続けなければ、新しいところへ行けるものではない。
フィルターを挟み込んで行くこと。
また、フォルムを運動に練り込んでいくこと。
フォルム=死。それは彫刻の起源でもあるフレーミング。
そしてまた、そのような死の原理と闘う生=力がある。
その振幅。
だから、すでに境界線上に立つことなど、ダンスにとっては基礎中の基礎だったのだ。
A点よりB点に移動=運動するとき、決して流さずに、そのつど分析的=意識的でありながら、なおかつ衝動的な運動=生を失わないこと。
マイブリッジの運動の時間分析=フォトクロノグラフ。
同時にやることが間違っているのか。
センターの多重化から、空間化=延長化。
ヴォリューム、マッス。
身体は神の楽器。インスピレ。息吹き。
外から訪れる徴ども。
運動との関係の更新なしに、主題との関係の更新もないのだろう。
こうして、迂回しながら、また始点へ。
それにしても、出入り口はいくつもある。
備忘。先週の天使館での表象/対象。感官における平衡。
しかし、タイフーンはまだ来なかった。いまから来るのだろうか。