Worstward Ho

だいぶ復活。生姜のおかげ。やっぱり、栄養とって、汗を出して、いろいろなことに気を使うことが体への薬となる。とはいえ、これが結核だったり、アスベストだったりしたら、ヤバカッタ。普通に呼吸することの気持ち良さ。とはいえ、まだ咳は出る。それにしても、ここまでしつこいとは。過労だな。でもとりあえず復活。
 で、静かにたたずむと、ああまたコラボ「ザンビネッラ」の話しに戻される。
http://d.hatena.ne.jp/kairiw/20050702#p1
http://d.hatena.ne.jp/kairiw/20050618#p7

しかしまあ、コラボはともかく相互理解は実質的には不可能である。かのジャック・ラカン先生もそうおっしゃっておられるようだ。コミュニケーションは不可能である。sさんもyさんもいっていたが、実際、まじめに最後まで双方納得するまで事を進めるには、5年はかかる。というか、たぶん、5年でも足りない。むろんこの目安は現在の地点から想像しての話しでああるが、実際に5年間「対話」を続ける義務はない。場合とひと、関係によってはそれは「義務」であろうが。家族なり、戦争解決とかの場合のような。ああ違うな、あと5年かかるというのは、つまり、それは5年もコラボを続けるわけがないのだから、それはつまり、相互了解など、とりあえずは不可能であるということをいっている。
 前提とされているものが違う。コンテクストが違う。解釈フレームが違う。むろん、使用言語も違う。お互いに紳士であるのでw、そこは紛争に持ち込まずにかなり対話を試みてもみたのだが、ま、不可能は不可能なのだ。不可能なものを、可能なものにもっていくことはできない。可能なものあるいは潜在するものを取り出して、それを伸ばして展開して実現することはできるだろう。しかしポテンツをレアライズすることと、インポシブルをレアライズすることとの間には、絶望的な距離がある。それは実際のパリと東京との距離である。つまりニ都市間の地理-文化的距離。ヨーロッパとアジア…ではないな。違うなあ。都市とか文化の話しもあるけど、これは同じく日本語を母語とする者同士でも、同じように、絶望的な距離はあるわけだ。あ、ま、個人と個人との間にも、絶望的な距離があるということか。
 というか問題はいつだって政治的な問題なんだ。
 パワーゲーム。こうして人生の時間は消費されていく。ま、「消費」というか、こんなに阿呆みたいに時間=金を使って、まったくポトラッチやる余裕なんか、ないはずだっての。
ポトラッチなら、まだ蕩尽であるわけで、…ま、たいそうな無駄使いという意味ではやっぱり蕩尽か。
 
 
 なにが争点となるかといえば、アイデアではない。アイデアを物質化あるいはリアライズするとき、つまりシーンにする上で、問題となる。見え方、というか。表面というか。その表面、表面化の過程において、どうにもこうにも、相互理解はありえない。少なくとも全面的には。ってアタリマエか。
 コンセプトもアイデアの内だが、アイデアはアイデアとしてはいい。ただ。
 例えば入れ子構造をいかに具体化するか。解決はいろいろあるだろう。というか、入れ子構造なんて、テキストをとってそれをダンス化する場合、すべてが入れ子状なんだ。だから、コンセプトがどうのでもなんでもない。それはジャンルでも関係ない。プティのプルーストでも土方巽プルーストでも。
 その上での事なんだが、お互い同じことをいったりもしているのだが、ずれるのは、感性=エステティックなレベル。例えば、なにか知らないが、それは私にとってダサイわけだ(逆もある)。しかしダサイってところで終わらせるのはよくないだろう。結局そうなると、問題はこちらにある。それがダサイという理由を示さなくてはならない。
 そうしてそのダササとかいうコードはむろん美/醜のコードなんだが、それがいかに構成されているかといえば、社会的歴史的に、そうなってる。で、そのコードがまた、ナショナルというわけでもないはずなのに、やはりナショナルな、いやこういうが正確が、ゲオポリティカルに作られている。で、そのゲオポリティカルなコンテクストなんぞ、いざ説明しはじめたら…

 しかしこのエステティック・コードつまりは美を巡る争いは、もっとずっと射程は長い。

… つまり、相手に納得してもらうというのは、自分の審美的なコードを納得してもらうということなんだが、その説明も、言葉では無理なのだ。つまりそれは劇場で、照明を合わせて、提示しないとダメなのである。そのモノを提示すること。
 なぜなら、光り、色、空間の物質性は、内容とは異なり、提示する以外に、伝達しようがない。物質性は翻訳不可能である。あるいは、細部は翻訳不可能であるというべきか。いやそれもその細部が、どの領域に所属するのかで異なる。動き、振り、音楽、構成も、あるところまでは、伝達できる。しかし空間の物質性はいつまでも翻訳=伝達できず、それゆえそこから派生してくる諸々の問題は、コミュニケーションにとって致命的な事態となる。なった、といおう。
 それはこちらが発信者としてというだけでなく、相手の発信も、こちらが捉えられないということもある。想像する限りでは、やばくとも、もしかしたら、実際に舞台上でそれを目にしたら、面白いと思えるのかもしれない。
 こうしたことは私の想像力の能力の問題なのだろうか。そうかもしれないが、ひとつには、私の光りへのフェティシズムに由来する、ということもある。
 
 なんにしても、もほや事は終わった。事態は少しは進行するだろうが、抜本的な解決にはならないだろう、こちらが支配権を強権発動して、一切をこちらが主導することも、実際あるひとから提案されたw
 しかしそれはあんまりといえばあんまりなような気もするし、それをする甲斐がない。
といって、事が解決するわけはむろんない。


 結局、争点は内容ですらない。形式こそが争点だ。時間配分とか。

 解決策はないのか?あるとすればそれはつまり政治的な解決である。つまり階級闘争だ!!なんてな。
 そうしてむろん、闘争の手段はたしかにいろいろあるだろう。
 テロもありだ。
 多数決による決定もある。しかしそんな投票している場合でもないとかになるしで、結局、問題は解決されないまま、先送り。そうしていよいよ事態は最悪の方へ。

ベケットの「いざ最悪の方へ」に癒される。
そういえばモレキュラーも行けなかった。
長島碓さんの解説によればベケットは1937年にドイツ語で書いた手紙のなかでこう書いているようだ。

「言葉の表面のあの恐ろしく身勝手な物質性が、たとえば、大きな黒い間によって食いちぎられたベートーヴェンの第七交響曲の音の表面のように分解し、その結果、全ページを通じて知覚できるのは目眩がするような沈黙の底知れぬ深淵をつなぐ音の筋道だけ、という具合になってはいけない理由があるのでしょうか」(p.127)

「表面のあの恐ろしく身勝手な物質性」か、さすがベケット


デビッド・リンチもまた音楽のような映画を目指しているという。
稽古のなかで「マルホランド・ドライヴ」の話しになって、私はまだそれを見てないのだが、ともかく、調べてみて、リンチもまた音楽的構造をモデルとして採用していたとは意外だった。だが、いわれてみれば、あの独特のストリーム・シーケンスは、音楽であって、建築ではない。「ブルーベルベット」の冒頭の、牧歌的なアメリカンライフのような映像。たしか消防車、家、花が流れる。「イレイザーヘッド」の闇への落下運動もそうだ。「ストレートストーリー」のあの道路もそうだし、「ワイルド・アット・ハート」のニ本の煙草もあのぶっ飛ぶ首もそうだ。「ツインピークス」の曇り空も。限り無く美しく絵画的=平面的でありながら、どうじにそれが、微粒子的に運動している。なんというのか、予兆を感じるわけだ。「映像」で終わっていない。そこにある独特の質感あるいは物質性を持つ運動がある。「言語」はおろか「記号」以前の徴のような。あるいはその「徴」がさらに微分されているような。たんに分解しているのではない。そこにあるストリーム、流れがあるのだ。ブラックボックスブラックボックスとの間に渡される表面=皮膚。
 波。
 波もまた襞である。

リンチは今日のバロキストのひとりである。ここにザッパとかを入れると、アメリカン・バロキズムとかいえそうだ。ここまたいずれ(例のごとく)。yさんの、「世界はまやかしである」。



 しかしいい経験とはなった。今後、このような形でのコラボレーションは二度とやることはないだろう。そんなひまも条件もない。
 誤解を避けるために書かなくてはならないが、わたしたちはかなりよくコラボレーションを試みた。しかし間にある絶望的な隔たりに対しては、それを埋めるより、むしろより隔たりを広げ深める以外に接する法はないと思われた。
 とはいえ橋はまだ架けてある。その橋すら爆破するかどうか。あと2週間。どうなることやら。