露伴、地層、航海
露伴については、他にもいろいろな思いでがある。
「五重塔」については、社会史のレポートで書いたのだった。いい読書体験だった。木目うるわしきケヤキ胴、だったか。いま「五重塔」を書棚より出す気がしない。のっそり十兵衛という名前だったと思う。
面白かったのが、嵐の描写であり、また嵐のなか塔に上り、守る十兵衛の姿。
嵐の描写のさいには、小鬼のようなものが跋扈して、みたいな、江戸時代の妖怪画を想起させるもので、まあ、江戸時代の小説を読めば、そうした形容はいくらもあるのだろうが、露伴の面白いところは、近代化というか西洋化というフィルターを通過していることだ。露伴は若いころ、西洋の物もいくらか読んでいたはずだ。たしか淡島寒月らと井原西鶴を再発見したりもしていた。それがどこまで結果として、それまでとの断絶になっているかは分らない。こうした「理想」やロマン主義的な意志については、とくにヨーロッパを持ち出さなくとも、各文化に遍在しているだろうし。だが、それでもやはり非常に個人主義的でもある。
中国や日本、インドもあらためて出直さないといけない。
「雪たたき」とか「幻談」「運命」については、また再読して、きちんと書いていきたい。
なぜ私がいまこんなモードに入るのか、それについてはすでに触れもしたが、まあ地震のようなものだ。
こうしたなんといえばよいのだろうか、知識の地層、いや地層は地層なのだが、「知識」ではない。それは「体験」の層である。
読書体験の層。しかしまた、「読書」でもない。
読書を、本との出会いがあって、それが動機となって、ある気分のようなものを作る。ある感情の状態といってもいい。
それで、その感情の状態のモードが、こと露伴に関してなんだったのかということである。
ノスタルジア。それもある。だが、それのみではない。
むしろ、たんに驚いたのだった。
なにか強烈な運動を感じたのだった。
ヨーロッパにおけるロマン主義の指標は、その文脈を抜くと、ずいぶんあてはまる。
理念派、露伴。これは文学史的には、尾崎紅葉らの、写実派だったか、集団に拮抗するものだった。
それにしても、私はなぜ露伴を好んだのか。紅葉も鏡花も、技巧などはすごいとも思うけれど、モードが入らない。
ところで、町田康はずいぶん露伴の影響を受けていると思われる。
腐っても、ロマン主義なのか。
まあ。当然、わたしたちはなんにしても、「近代」を生きているわけだから。あるパターンに入り込むのは仕方ないことだ。
なにをいじくりたいかといえば、地層のことだ。
明治という地層。20代前半は、明治とヨーロッパと実存wとの三角形を描いていた。
その後、ジョイスと、ボルヘスやゲーテらのビルドゥングス・モードとの二つの地震が起きて、津波が来たのだった。
でももう洪水は終わったか。
そうしていままた、別の地層が覗けて来ている。
それにしても、もしあの頃、露伴とかに出会ってなかったら、こうした感情の歴史あるいは地層自体、なかった。逆に、もっと生きやすいようなことがあったのかもしれない。
しかし、露伴が強く、錨になったとしても、結局は難破続きである。
こうして、セールの航海ノティックとつながった。
そうして、錨も、航図も、自分で作らないといけなくなっている。
いかに籠るか。持久戦の戦略。
人生設計も含めて。笑いたいところだが、笑う余裕がないな。
とりあえず自転車操業は終わりにしよう。
地固めの作業。海より陸へ。