わが悪魔祓い

イライラして眠れない。フュースリの夢魔みたいなもんだ。
上記のエントリ−も、もはや数時間前の自分の呑気さに胸をむかつかせるのみだ。


 悪魔祓いをしようにも、いまは手立てがない。
 こうして、書くことだけが、悪魔祓いである。


 「伝統表象」は麻薬である。


 それはブレヒトがどこまで憎んだかは知らないが、少なくとも、ある一時期、敵視したイリュージョンにすぎない。
 それが最悪というのではないにせよ(なぜならベケット的な最悪という様態があるから)、悪であるのは、すべて問題を、なしくずし的に隠蔽するからだ。
 

「伝統表象」と「永久革命(としてのモダニズム)」のいずれかを、選択しなくてはならない場合、やはり私は断固として、後者を選ばざるをえない。
 それこそ、「仕方ない」のである。

「あれもこれも」という状態が、たんに先送りの思考形式であり、ゆえ無責任であるとすれば、あるのは「あれかこれか」であり、ひとは選択することによってのみ、「真理」へと近似する。
 実際に、なにが「真理」であるかはひとまずは置いておく。しかし、このような事態がある以上、それを求めないことは、卑劣である。

 いくつもの「外」がある。「外」は多様である、ひとつではない。

 ある「外」があり、また別の「外」がある。

 こうしたことは、イデオロギーとしての相対主義がなぜ許されてはならないのか、という問題でもある。

 私はかつて、方法論的には相対主義であることは、ひとつの倫理である旨、書いた。
 しかし、方法論的立場と、「信条」とを混同してはならない。

 
 こうした事態に陥るとき、いつも思うのは、ふやけたことをやる前に、優先されるべきことがあるだろうし、時を浪費する前に、やることがあるだろうという、自己への説教あるいは叱咤である。

 
 私はかつてよくそうして、壁を置いたものだった。別に閉じたいわけでもないのだが、結果として、閉じていたのかもしれない。その壁はある時は死でもあり、ある時はなにかしらであった…

 サドやカフカのように、閉じ込められる前に自らを閉じ込めよ、ということなのか。

 いやこれはサドともカフカとも関係のないことだ。

 

 悪霊が再現前する。それはわが悪魔祓いのためであった。

 
 そうだった。思い出してきた。私がこれまで物心ついてから、人生を創ろうとしてやってきたことの全ては、悪魔祓いであったのだった。すべてが、そうだった。

 
 この機会は、私にそのことを気付かせた。それには感謝しよう。しかし、また、感謝している余裕もないものだ。

  
 かつて書かれたことがあった。しかしそのことはいまは聞くことがない。

 さまざまな経路を通る。

 そうして、かつて書かれたことと出会う。
 
 それは私を震わせる。

 DAMN IT ALL! というエズラ・パウンドの叫びでもいい。

 なんでもいいわけではない。

 この声でなくてはならない、そのような事がある。

 それを必然性とでもいえばよいのか。

 偶発性に耐えるということは、偶発性を許すということではない。

 その含意は、世界の偶発性に耐えるということであった。

 なにもない。それゆえ、確固たる「伝統」なり某なりも、選択するな。
 すくなくとも、いまは。

 途上なのであって、終わりではない。

 歴史はこれからも作られる。