ハイカイ、創られた伝統、物
明日、仕込み。どうなることやら。というか、ブログるひまあるんなら、寝た方がいいのだが。
なぜか知らないけど、いきなり水木しげる「河童の三平」を読みたくなって、読みながら、明日の準備。なにやってんだろうか。河童のことより、自分らの上演のこと考えなくてはならないのに。
それにしても、やはり「河童の三平」は傑作である。あのちらほらと浮かび上がる寂寥感のようなものは、芭蕉俳諧以来のわびさび美学なんだろうな。
露伴の芭蕉七部集講釈(書名、失念)とかも、また読みたくなってきた。
というか、実は今回、ピエールさんとのやりとりのなかで、どうしても、「日本」問題が出て来たのだった。
考えてみれば、それは当然なのだ。
それは、また、彼がなぜ日本に来たのかということでもあるし。
おかげさまで、リ・ディスカヴァー・ジャパンです。
「伝統」の表象。コマーシャル的に消費される「伝統表象」とか、まあ、真面目に考えると、大変だ。
たしかに私は「日本」に生まれ、そこに住んでいるわけだが。しかしまあ、でもやっぱり「伝統」は「創られたもの」。
表象の実在性、リアリティがある。
表象化不可能なものの実在性、リアリティがある。
コラボレーション論のなかで、物質性は翻訳できないということが出て来たのだった。
物質的実在性?マテリアル・リアリティ?
その概念がどこまで、あるいはどこで議論されているのか、分からないが、ここが、一番重要な気もする。
なにがモノ的に、実在しているのか?ということだ。
「物」とは?
表象に抗う「物」。
とかって、もう10年越しの問いかけだ。だめじゃん。進歩ないじゃんか。あ、でもぐるぐるまわっちゃいるから、差異はあるな、多分。
あらたに、問いの螺旋。