終演&クーリヤッタム

前後する。それで、「ザンビネッラ」御来場いただきありがとうございます&おつかれさまでした。

ものすごく久々のHZさんと一瞬、あいさつ。化粧落としで、間に合わず。
どうもすみません。お元気でしょうか?

舞台がいいなと思うのは、これなんだ。
何度もいうが、出会い。
この出会いという契機がないのであれば、別に舞台というメディアにこだわる必要は全くない。

上演についてはいろんな感想を聞いた。意外と好評なのが不思議であった。
だから、いまでも、自分では、狐につままれた感じ。
俺が間違ってるのか?と不安にもなる。
本番前日かなにかに、新書のバッハを読んでいた。
即興と構造とについて。フーガ。
そして、これは自己の確認であったのだが、それはまたお客さんにはまったく分からなかっただろうけれども、私は即興で、構造化をやっていた。そのことに気付いたことが、今回の最大の収穫であった。
あんなことができるとは。
考えてみれば、ソロの時にもそれに類することはやっていた。
しかし、こんかいは、フレームはある程度固めていたうえで、そのようなことができた。
見え方としての(表象としての)上演のなかで、起こる、出来事としての。生、のようなもの。
表象の裏?
細々と燃えたのだった。


とまれ、hさんnjさんiさんnさんらと朝までコースとなり、気付くと、oさんが運転する白州行きの車のなか。そして、気付くと、白州の森のなか。そして気付くと、インドサンスクリット古典劇クーリヤッタムの「シャクンタラー姫」。
 ぼわぼわと始まる。舞台前面に三つの火。…とかいううんちくはともあれ、とにかくなにか圧倒的なものを見てしまった。
 これ見たら、ヨーロッパが、アジアのパロディだったんじゃないかとか、バレエってこれのパクリじゃん、とか思わざるをえない。

 というか、すでにブレヒトも入ってるし。

 これがあるなら、もう太陽劇団は…といいたくもなる。

 なにより、屋外でこれを観ることができたことが幸せだった。
 誘ってくれたoさん、本当にありがとうございました。
 
眼、眉。

人形振りなのか。神的なものの模倣なのか。
人間を模倣するとなると、非人間になるのか。


とくに衣装がすばらしい。

まず狩りのダンスで引き込まれていった。
「太陽の踊り」というシーンはとくになかったと思われるが、そういう言葉も生じる。

ゆったりとした、静かで、しかしどこか猥雑で、しかし高貴な。

たしかにここからすべてを考え直すことができると思われる。
歴史のすべてを。

なにが持続しているのか。
oさん、otさんらと終演後、お喋りした時も出て来た話し。

細部への集中とoさん。
しかし、ギエムの足のダンスや玉三郎の鷺娘や阿古屋のような集中力ではない。舞踏の微粒子とも違う。

なにか決定的に異なる持続が、あった。そう感じられた。

近代人がこれを観るということはどういうことかについて。
近代など、古代にはかなわないということw

やばいものを観てしまった。
これはもう長年、頭にひっかっかてもいたインド行き決定である。

クレモンティーヌに教えてもらった即興舞踊も調べないといけない。

ああいうの見せられると、さみしくなる。近代化という概念がいかに自家撞着的か。

さらに不思議なのは、その観劇体験が、決して、イリュージョンに委ねられていなかったこと。
その滋味は、まったく「イリュージョン」とは関係がないと思われる。だいたい、「イリュージョン」だなんて、近代の産物なんだ。その概念以前の世界のものだ。おそるべしサンスクリットの世界。


otさんと大逆事件について。日本帝国主義つー話し。新国とか。ヴァルツ関連で。
前日観に来てくれたmさんと会う。互いに笑う。だって昨日、本番だったのにー。

お話としては、最高の打ち上げでした。
でもゲロひどし。ほんとうにすみませんでした。

朝、帰宅。胃液ゲロ。疲れてたのね。寝る。

モダンバレエ。セルフオリエンタリズムクレオール主義についてyくんと。
まあ私もクレオールか。



インドに負けてたまるかと、「油田II」夜中の稽古、開始。