「私の火山に草が生える」

忙しくて、猛然としている。そうしてまた、絶望している。この小さな絶望感情は、ガラスの破片のようなもので、粉とまでなれば、サラサラとしているのだが、その形によっては、非常に危険である。
 これに対して、もっと巨大な絶望感情がある。これはこれで、逆に、どうにもならない。大洪水みたいなもので、ただひたすらその渦に呑み込まれるまいともがくくらいしかできない。メエルシュトレーム。


 体勢のシフトチェンジといろんな調整・準備とが重なり、盆休みもなし。九州の夏は大好きなので、帰郷したい。あんまりすさんだ生活を送るのはよくない。転倒しているのだろうか。転倒につぐ転倒で、いまどの方向を向いているのか、は、まあとりあえずの手作りの海図がありはするので、なんとなくの見当はついている。しかし、いまだ陸地は見えず。大地との関係を失って久しい。とかいって、土竜土竜でもある。大阪での入院生活のとき、土竜について書いたことがあった。光りが欲しかったんだ。

 間投詞ああ。かつてフランス外交官として日本に赴任していたポ−ル・クローデルは、黒鳥(クロドリ)と自分の名を呼んでいたという。音声的類似による。烏。

 なんの脈絡もない。強いていえば、書籍整理による、発見。というと大袈裟だが。




インドネシアでの上演タイトルをとりあえず、決めた。
 
イマージュオペラ>>モノブロック<<「On my volcano grows the Grass」。以前アトリエでやったもの。といって、別になにも決まってはいない。この言葉は、エミリー・ディキンソンの詩編より採られた。というか、第一行をそのまま採った。




On my volcano grows the Grass
A meditative spot-
An acre for a Bird to choose
Would be the General thought-




How red the Fire rocks below
How insecure the sod
Did I disclose
Would populate with awe my solitude





まだチケットは取ってないので、そもそも行けるかどうかも現時点では分からないが、まあ行くだろう。
ディキンソンの火山には草が生えただろうが、私の火山に草が生えるか?

まだまだ草は生えそうもない。いや、生えたこともあったが、枯れてしまったのだった。
しかし、また生えるだろう。

不安な土に。土の不安。

そういえば、稽古で、大地を人体で作ったら、表面は板張りだから、硬いのだが、どうもニョロニョロとした感触が、気持ち悪かった。人体の多くは、水分だと知識では知っているが、水=血の入った袋ということを触覚的に?知った。腰がくだける、ことはないが、なにか知らないが、不安になる。大地震への恐怖にはさまざまなものがるが、なによりも、強固なはずの地面が、モロ動くということが、恐いのだろう。
 動物としての地表、地球。みたいな感じ。


世界が一様であってほしいとは、秩序化を意志する「社会」の欲望だ。しかし、「社会」の外にある自然も、あるいは、「心」にも、カタストロフがある。しかしむろん「社会」にもカタストロフがある。いずれもカタストロフということでは同じである。無常というやつか。しかしはかなさだといっても、それをやはり形象化のなかで考えていきたいものだ。それにしても、ディキンソンの詩の形象化能力は、すさまじい。