クレオール、商品化
うひゃー、いっぱい出て来た。
エンターテインメント、ブレヒトの「楽しみ」。
クーリヤッタムの古典古代的「伝統」における劇的なものの機能について。
古典古代的メディア。
メディア=媒体。
文楽に以前、はまっていたのだったが、それは、「夏祭浪花鑑」を見たせいだった。あれは本当にすばらしい。
それで…まあ、延々、ヴァリエーションなんか。
土方巽における伝統表象の脱構築的使用。そして、そのネオトラディショナルな、というかオリエンタリズム的な受容。ジャポネスク趣味的な回収。
このへんのどんづまった話しは、クレオール論で切り抜けることができるかもしれない。
「サンビネッラ」終わってすぐレフレッシュのために、あ、白州に行く待ち合わせのちょっと前に、今福龍太さんの「クレオール主義」を購入したのだった。いままでなぜか出会えなかった本である。
ブトーもクレオールらしいが、今日、タワーで思ったのが、近代化以降の日本モダニズムって、クレオールだ。
混血と純血。
混淆。ハイブリッド。
佐世保なんて、まさにそうだった。
しかし、まあこのあたりで、ようやく自分の混淆ぶりが、どのへんにあるのか見えてくるような気がする。
ああ、ニューオリンズに一時ああまではまったことにも関係あるかもしれない。ストレートなロックにはいけなかったこと。どうしても、ピュアホワイト臭には、あのころは行けなかった。
しかしj-popにおいての商品化されたクレオール主義はどうなるのか。
ここは、そもそも、商品化自体が、問題化されないことには。