解釈フレームの限定

 だいたいが、この手の話でうんざりするのは、解釈フレームをひとつにしたうえで、「教育」が考えられていることだ。南京大虐殺でもなんでもいいんだが、日本帝国主義がなにをやったのか、そうした「事実」(つまり疑う余地のないものとしての。つまりこの場合、解釈フレームは、ひとつである。)の実証的認定もむろん重要なのだが、それよりもむしろそのとりあえずの「事実」をいかに考えればよいか、思考することを、練習することが、教育だろう?