修正主義、原爆教育


 それにしても、歴史修正主義らは、戦後教育は自虐史観でよくないだとかいっているが、たとえば、原爆教育についてはなにを語るのか。あの原爆の数々の写真映像を見て、おそろしくなり、そしてそれをもたらしたのが、アメリカだとすれば、その恐れのため、逆に、アメリカに助けをもとめるようなねじれた心理展開にもなることを「想定」したとする。(実際、ことは「教育」に関わることだから、生徒がこのような解釈/考え方を持ってしまうと、「想定」してるだけのことで、実際に、そのように「想定」された解釈を生徒がとるのかどうかは決定できない。)アメリカに「帰依」?すること、それは愛国心と両立しないはずだから(アメリカとの関係と、「日本」への愛国心とが両立しているようにも思われる今日の国粋主義は、その折衷主義というかご都合主義からしても、真に愛国心とはいえない。そもそも「愛国心」とは一国主義であるだろうから。)、なされてはならないとなりはしないか。ああ、もっと説明的にいかないとならない。原爆教育によって、被害者としてのあるいは敗者としての意識が形成されることをおそれないのか、ということだ。
 連中のいう「自虐史観」批判は、批判としては了解できる。しかしそこに、被害者・敗者に意識形成が問題化されていないことが、分からない。以下で述べる「矜持」の精神など、「被害者」に持つことができるのか?
 わたしがいいたいのは、被害者意識に収まるだけで、原爆の問題が片付くことはないということだ。原爆の問題は、もちろん、主体がアメリカであったわけだから、アメリカ的主体の問題でもあり、また、科学テクノロジーの問題である。
 そういえば、ミシェル・セール科学史を志す根本動機は、ヒロシマ=原爆であったという。