連日、稽古の日々。抑鬱で、この二週間、いや一ヶ月ほど、視界がほとんど見えなかった。しかしようやく新しいアイデアと出会え、世界が切り開かれていった。むろん、これもまた始まりであるにすぎない。
 それにしても、アイデアの検討、あるいはイマージュ、ある形象を検討するとはどういうことなのか。どういうことか、と問うても仕方ないのかもしれない。しかしそれをせざるをえず、この間の改訂という初めての体験において、私はなにごとかの作業をしているのは間違いないのだが、それがはたして正しいのかどうか、いまいち納得ができない。
 条件に屈服してしまっているのだろうか。悪しき意味での妥協をしているから、それが許せないのか。何なのか。
とまれ、少しずつ、ずれていっている。
 私の抑鬱症状はかなりひどいので、周囲に負担をかけてしまっている。しかしなかなか「大人」になれない。
しかし「大人」になるとは、含意しだいであるといえ、まあ到底無理だろう。「大人」になるということが、成熟を意味し、あるいは鴎外的な諦念を意味するのなら、もちろん、そこへ至るにはまだ長い行程を必要とするだろう。
 
昨日はなぜかログインしたのに、いつものログイン状態?にならなかった。つまり、編集/書き込みができなかった。サーバーの問題だったのだろうか。


見本市。内野さん、お疲れさまでした。大変、充実したレクチャーでした。

それにしても、先日の会議ではないが、というか問題の布置は共通しているわけだが、現在、この日本という社会で、舞台を上演していくとはどのようなことなのか。
 情勢論あるいは社会学的分析は必要である。しかしそれはすでに成立している状況の認知である。これは再認といっていいのか。それはともかく、そうした現状の分析は、…前提的認識の次元にあるものである。
 それはそれとして踏まえたうえで、上演がどのようであるのが、「正しい」のか、と私は問いたい。そしてそれもまたごくごく当然のことである。稽古をなんのためにやっているかといえば、ただひたすら、その問いを続けていくためにである。解答としての理念を得ることが目的であるというよりは、やはり、この問いの探求それ自体が、目的なのだ。そして、その「正しさ」とは、倫理/エチカに当然関わるものである。つまり、ある特定化された「業界」としての「舞台」という個別社会においてではなく、いわゆる「一般社会」といえばよいのか、より広範囲に渡る「社会」において、上演は機能するはずなのだ、ということ。「はず」というこの想定が、ブレヒト的な教育演劇のヴィジョンを遠くはなれて、たんにある特殊な「業界」が、利権獲得のために勢力領域を拡大させていくという膨張主義的な言説に、回収されてしまうこと。
 こういう言い方をしたくもないが、上演体験とは、上演表象という別の形で、「生」と出会い直すということなのだろうか。しかしいまこのような言い方は禁ずるがいい。

 ああ、眠い。

そのあと、oくんとみんなでごはん。
また、稽古に戻り、その後、大掃除。

電車での非礼な妊婦。このクニのモラルコードは、もう本当に壊れてしまっている。


昨日は昨日で、稽古。そしてパーティでuさんといろいろ話す。

その前は選挙で、ムルナウの「タルチュフ」。「サンライズ」購入。雨。で、会議。