ジャンク、国体、クレオール

見本市二日目。インドネシア舞台芸術事情レクチャー。劇場はかなりたくさんあるようだ。音楽は、もう、圧倒的に、トラディショナルの方が面白い。プレゼンテイターはテレビ関係のひととのこと。日本との比較という意味で、なんか、いろいろ勉強になりそうな感触であった。近代化とは経済成長のことか。つまり高度資本主義化のことなのか。
 シンガポールにも、比較社会学的関心からすれば、行ってみたい。
「new music」に耐えられず、途中で退場。だいたい、日本はおろか西欧の「new music」も基本的には大嫌いな私にとっては、苦痛であった。それにしても、私のこの嫌悪は、むろん趣味判断によるものだが、これは何に由来するのか。幼いころより、なぜ同時代の歌謡曲=popsを、聞くことができなかったのか。おそらくは、手塚治虫体験によるのだろう。つまりはじめに古典の楽しみを知ってしまうと、古典以前のものを楽しむ経路が形成されにくい。まあ、ここもまた一概にはいえない。
 sさんのレクチャー。「技術の誤用」論。視点はたしかに面白いが、しかし映像を見る限り、全然、ダンサーの技術はすさまじく高い(ひともいる)わけで、コンセプトにおいて、技術の否定があるとしても、実際には、テクニックをがんがんシステマティックに使って踊られており、結局、「ああうまいなー」と、テクニックに感嘆しそれを享受しているわけで、反省的な観察理論としては、成立していない、すくなくとも、あいまいで、不明な点があった。でも、面白かった。康本さんのような高度なダンサーを、もっと別の仕方で、語ることはできるような気がする。
 “J”という風土に限定させることもない。“J”といえば、uさんの言説によって、私も“J”化された。もちろん、私は、日本で生まれ、そこで育った。ジャンク/ジャパン、か。ジャンクといえば、ジャンクフード、もちろん、嫌いではなし、たとえばザッパはジャンクといえるだろうし、アメリカ自体、ジャンクである。キッチュ、ビザーロ、あるいはキャンプ。B級でもいいが、アヴァン・ポップとかもある。ウォーホールビートルズによって切り開かれたポップ革命、とでもいうのか。そういえば、ドゥルーズも、一時、ポップ哲学だ、とかいったこともあるw
 ピンチョンのことを久しく思い起こすことはなかったが、このいうなれば20世紀のドストエフスキーから、今日のポストポップを観察していきたいとも思う。しかし、「重力の虹」を原書で読むのはやはりきついな。
 ジャンクの「J」は大賛成である。しかしそれが場所が日本であるから、…やはりジャパンの「J」なのでもある。

たまさか、現在、「日本」へと急旋回中である。
 
 昼、大澤真幸「思想のケミストリー」竹内、吉本。関係の絶対性とか。

 kさんと会う。会社が近所とのこと、いろいろ話す。社会との通路を開く努力について。しかしその社会は、アタリマエ資本主義がルールであるがゆえ、そこへ接続する努力もまたそのルールに乗らなくてはならない。のだろうか。「正論」。だが、世界への異和感覚が消失したら、無為なる「表現」なぞやることもない。ここは、もう極々一般的な話題で、忘れていたこと。大澤本で、ああやっぱりこれが基本となるのか、そうだよなと納得した15分後の会話であった。このシーケンスは、ドラマトゥルギーとしてはあまりに唐突でもある、だが、これは現実に継起したシーケンスでもある。「現実」の出来事において、こうした奇異なことは、本当に、以外と多い。だが、なぜ「以外」と感覚するのか。それは、「通常」の社会的な「想定」が、ルーティンのイマージュで構成されるからだろう。
 あ、やっぱり、異化なのか。

ブース。hさんとしゃべり、解体社のパンフを安くなっていたので購入。写真の緑の宇宙胎児?に軽く、衝撃を受ける。(追記:ねずみであった。マウス、軍神マルス)こんなこともやっていたのか。すごい。マリーシェイネール?、未来派みたいな印象。tさんとしゃべる。

 尾崎放哉の俳句を素材にした山下残さんの作品についてある方が怒っていた。しかしあれを見て怒るのはなぜか。「ダンス」のあるべき姿を想定していて、そのコードを侵犯するからか。プチミニマリズムなのか、プチリテラリズムなのか。マイムとか、ミミクリとか。言語に対応する身振り言語…さわやかなポップ…でもやっぱり、もっと貧乏じゃないと、面白くはない。貧乏もまた意匠になる。「書生」の表象。でもま、放哉をダンス化するのは、世界初であるのだろう。
 東野さんはハードコア系。康本さんと同じく、相当な技術を見せる。なんとなく笠井さんの「セラフィータ」を思い出す。産婦人科の椅子?、途中で落ちてきたのは、メスなのだろうか。照明が暗い。
 砂連尾さんたち。いいちこ。あるいはプチ小津主義。小津安二郎原理主義者としては(半分嘘であるが)、こうした小津のポップ化はやはりどうかと想う。テレビコマーシャルのような感じ。ちょっぴりほろにがくちょっぴりえっちなw(パンツのチラリズム・エロティシズムは明らかに演出されている)おされな大人のアンニュイ。面白くもあるのだが、時折入るバレエっぽい動きの意味=必然性が不明。
 この三作品には、それぞれ対応する日本のポップス/歌謡曲があるような印象。これは上演で使用された音楽とは関係がない。

 衝動系/ヘヴィー系。と構成系?/ライト系。蒙昧系と怜悧系。身体派と言語派…。
 同じだな、いつまでも。大澤本を10年ぶりくらいに読んで、結局なにも、この時代の認識論は変更されていなかったことに驚いている。社会が変わったという印象自体、幻想だった。何も変わっていない。ますます「細分化」。
 破片。
 デレック・ウォルコットの割れた花瓶。
 
 大掃除再び、眠い。
aと、暴力表象について。内向される暴力を日本は安心して享受する。しかしそれが「社会」へと向かうとき、過剰防御とも感じられるほどの嫌悪の対応を見せる。「国体」だ。あるいは、「社会体」がある。集合的な身体、「世間」?を、批判するものは、たいがいネグレクトされる。
 そうだ。「国体」だったのか。
 ああこうなると、やはり「国体」の形成期、つまり権力の正統性の承認や、支配関係の編成を行っていたカオティックな状況を思わざるをえない。かつての私にとってそれは明治であった。しかしいまや明治時代などというものはもはやない。それは単なる元号だ。あるのはただひたすら、クレオール
 近代化という名の植民地化。