A Nightmare/A MUSIC:MULHOLLAND DR.

老辺餃子。刀削麺。中国の本店に行きたいが…

マルジャン・サトラピペルセポリスI・II」バジリコ株式会社
ペルセポリスI イランの少女マルジペルセポリスII マルジ、故郷に帰る
イラン出身パリ在住の漫画家、イラストレーター。女性。1969年生まれで、1979年のイラン革命イスラム革命)のときは10才。その彼女の回想記漫画。






リンチのマルホランドドライブにかなりうなされる。アメリカ/ハリウッドのナイトメア。
この映画の解釈については、ネットでもいろいろあるしまた、斉藤環「フレーム憑き」 フレーム憑き―視ることと症候でのフレーム理論、メタ世界論、近景ー中景ー遠景論がある。この映画は、たしかに「謎解き」へと誘うものであるが、この異様な、「感情」に直接入ってくるような、いや、直接といっても、そこにはいくつものメディウム(リンチ)があり、まったくもって間接的ではある。「感情」というよりか、ある「リアリティ」の、基盤のようなもの(フレーム)に、じかに触れるような感じがする。実際、謎解きからすると、すでに答えは、いくつか映像のなかで提示されている。しかしそれは提示されるだけで、どれが決定的な「現実」=「事の真相」=「答え」かを示しているわけでもない(ように思われる)。
 すくなくともこの映画は一回のみ見ただけで、解析が終わるようなものではない。いま私はまだ一回し見ていない。しかしおおくのひとから前評判を聞いていたので、ちょっと気合いいれて見たわけだった。あらゆる伏線/兆候を見逃すまいと。そうして見終わり、ああと分かった気になった。しかしその謎解きよりも、中盤の、死の提示、死体の提示によって、それより映画が終わるまで、前半のある牧歌的なイリュージョン的な「現実」が、再構成されていく。されていくにつれて、悲しみがひどくわき起こった。「アメリカ」なるものへの感情的コミットメントが揺さぶられたのか。別にハリウッドに行きたいと思って来たわけではない。思ったこともむかしはあったが。ハリウッドよりも、ハリウッドで作られてきた表象体系としてのハリウッド、あるいはもっと直截にいうとロスアンジェルスのことだ。リンチの映画は、必ずしもすきではないのだが、どうしても、体験史的に、ある過剰な反応をしてしまう。いや、そうではない。…この映画は、JENNIFER SYME(1972-2001)という人に捧げられている。シャイムは、ロスでエンターテインメント産業界で働いていた女性で、リンチの作品を手伝ってもいる。キアヌ・リーブスの元婚約者で、彼の子供を妊娠したが、流産であった。それからキアヌとも別れる。マリリン・マンソンの自宅でのパーティの帰路、衝突事故。頭が粉々だったという。uも、バイクで事故ったとき、頭をやられていたという。悪夢だ。怖くて、しょうがない。悲しくてしょうがない。この感情には、世代感覚というフィルターも入っている。そういえば、uとシャイムさんは同年齢だ。若くして死ぬということ。これを特権視すべきではないかもしれない。しかし、若いころの夢、時間、「青春」は、つまりは夢のようでもある。感傷は、ひとを欺くものなのかもしれない。デカルトはたしか感覚の欺きに陥ってはならないという観点から、「理性」の形成にいたった。「方法序説」もずいぶん読んではいない。…たしかに感性判断による戦争などをみるにつけ、感性などクソクラエとも思ったりもする。しかし、リンチのこの映画は、感性の成り立ちの次元まで、つまり「リアル」の成り立ちの次元までじわじわと侵入し、その襞の刺激がついに、観点point of viewの成り立ちをも、揺さぶるものになっているような気がする。斉藤氏も対照するように、ゴダールとリンチとでは、その作業の内実、歴史認識、つまりは思想、またそのフェティシズム、構成法、官能性、「身体性」?、ことごとく異なる。しかし異なるのだが、観客の感性への働き方、その機能の仕方の直截性がどことなく似ているようにも感じる。だがこれはこちらの問題なのかもしれない。
 斉藤氏の分析では、リンチは「フレームを安定させる超越論的審級に介入し、その単一的な特権性を破綻させ」、それは「疑似フレーム」を増殖していくものだという。「本来ならメタレヴェルがありえない象徴界が複数化=メタ化されることで、想像界のレイヤー構造が壊乱されてしまう」。これは、「想像」から、メタレヴェルが奪われるという仕組みにおいて、スキゾフレニックである。(ちなみに氏は、ゴダールパラノイアのリミットとして、「ラカン的」と形容する。)
 安定したメタ視点がないということ。そしてそれゆえ、「リアル」なものに浸されるのだろうか。それゆえ、怖いのだろうか。(「リアル」、「現実界」ー物自体的なもの…※重要)
 「マルホランドドライブ」において明らかなのは、死体は現実のものであるということだ。その死体がまだ生体であったころの「生」=出来事が、記述されている。そして、そこに現実/夢/亡霊という枠が明示されない。しかし、だれかがあのベッドで死んでいる。ダイアンの部屋で死んでいるから、ダイアンではあるのだろう。しかしあの部屋自体も匿名的な、挿話的な断片にすぎない。リンチは、プラトニストよろしく、音楽化を目指したという。これは、音楽という非形象的にして、「リアル」なものを特権化しようとしているのだろうか。音楽に魅惑されないで、ことを済ますことはできるだろうか。私にはできない。それに、音楽がプラトニズムによってイデアの頂点に立っているということが問題だとしても、モダン以降の再帰性の主導からすれば、音楽は制度的には特権視できないものだ。なぜなら、それは捕まえることができないからだ。それは流れるときにのみ、そこに現前する。再帰するとか、リプレゼントとかいうことではどうにもならないような次元が音楽にはある。音楽は意味を脱臼させる。あるいはつねに意味より逃げる。ナチがワーグナーを政治的に利用しても、またワーグナー反ユダヤ主義だとしても、ワーグナーの音楽は、そこから逃げる。ワーグナーと比較すると、オルフの場合は、やはり楽曲としての押し付けがましさが、どうにも「意味」的である。これはたんに私の趣味であるか。それは分からない。というかそこで終わらせたくはない。まだまだなにも分からない。
 私がいいたいのは、なぜかくも音楽は魅惑するのかということだ。感情に、「直截」、侵入してくる。そうして、「マルホランドドライブ」もまた、たしかに、音楽のように、侵入してきた。
 基盤となるプロットは、多くのひとがいうように、陳腐である。売れない負け組の脇役女優と、栄光を手にしつつある勝ち組の女優との愛憎関係と、殺傷(他殺と自殺)。そして、映像は、前半は、視点が定まらないような、不安なカメラワークで、細部へのフェティッシュともいえるようなショットが動いていく。そうしてふわふわと、どことなく不吉な予兆を暗示させながらも、ベティの牧歌的な明るいキャラクターのおかげで、…停止。
 前半のベティとリタの動向は、ダイアンの夢であるとされる。普通に読めば、そうだ。ダイアンはカミーラの殺害を依頼する。終結部でダイアンは老夫婦(ダイアンの両親?→違った。これはベティがはじめてロスに来たときに乗り合わせた夫婦。しかしこれが記憶ではなく、夢であるとしたら、両親がそうした見知らぬ「観客」として現れることもある。ベティの成功を期待する他者。)に追われ、銃で自殺する。また冒頭に戻ると、カミーラは交通事故に遭う。この場所は、ダイアンがカミーラに近道を案内される場所である。命からがらルースさん(ベティの叔母)の家に至るカミーラ。カミーラはすでに亡霊であるかのようにも見ることができる。…亡霊と、ベティの夢とが交錯しているのだろうか。あるいは、カミーラとベティは、ふたりとも亡霊であるのか。
 他方、斉藤氏が指摘するごとく、後半をカミーラの夢と見ることもできる。ここから「謎同士が相殺しあうループ形式」というアイデアをリンチは得たとの見方を取れる。
 …違うのである。謎解きをしたいのではない。それよりは、あの感情についてである。この映画を音楽と対照させる必要があるのも、あの感情があるからだ。
 映画として、特にこの映画が好きなわけではない。使用される音楽も、50'sを除いて、効果音的な楽曲も好きではない。なのに、感情への機能において、音楽的であるし(やはり構成が音楽的なのだろう)、その機能の仕方には、魅惑された。すくなくとも、強く喚起させられた。これはアメリカ映画を見ると、しばしば起こることだ。
 アメリカの表象、ロスの表象。そのなかで育ったということ、その体験史に食い込んでくる映画であった。しかしそれが、ノスタルジアによって、補完されるわけではない。ノスタルジアという感情についても、本当はもっと徹底して、知らなくてはならない。ノスタルジアという感情自体、現在と過去とをループ状に形成するものだ。そのつどの現在の出来事が、また過去を再構成していき、そこから逆遠近法になって、現在を再構成していく。これはもしや悪循環ともいえるのかもしれない。プルーストや、土方巽の魅力はまさにこの時間の操作にある。そうして、この時間の形象化ということが、音楽的である。さきに音楽は非形象的であると書いた。しかしそれは空間を軸にする限りにおいてである。時間と形象とが、どのように構成され、関係づけられているか。それはやはり空間的な現前性とはまた異なる。空間の物質性という次元がある。では、時間の物質性というのはあるのだろうか。時間において、「もの」とはなにか。…中断。


http://www.mulholland-drive.net/home.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Jennifer_Syme