読書の快楽を読む快楽

この間、やっとの休みで、ずいぶんぼやぼやしている。ふっとすると、妄想が襲ってくる。あんまり苛めんでください。テロしますよw

  ジャック・ラカン伝
エリザベト・ルディネスコ「ジャック・ラカン伝」を読んでいる。シャルル・モーラスとの関わり。福田和也「奇妙な廃墟」もいいかげん読まないといけない。ブランショラカンまでも魅了したアクション・フランセーズ。日曜歴史家のフィリップ・アリエスもいた。
 伝記を読むようになったのは、リチャード・エルマンの「ジェイムズ・ジョイス伝」のせいだ。あれは本当に面白い。伝記なんてと思っていたがあの本だけはまったく違う。ジェイムズ・ジョイス伝〈1〉 ジェイムズ・ジョイス伝〈2〉

 おかげでボズウェルのサミュエル・ジョンソン伝を借りて読んでみたが、まだついていけなかった。それはともかく、エルマンの本は本当にすごい。フーコー伝とかジュネ伝とか、ベーコン伝とかディキンソン伝とか読んで来て、いまラカン伝を読んでいるが、まったくあの読書体験に匹敵しない。ジョイスというひとの魅力もあるだろうが、エルマンの記述の力も相当なものだと思われる。

 ラカン伝はまだ前半であるが、後半のミレール派についての記述でもめたそうだ。冒頭の家族の歴史はヴィネガーメーカーの話。シュルレアリストとの交流のあたりはもっと知りたいところである。症例エメ、マルグリット・パンテーヌとその息子デディエ・アンジュー(精神分析家。邦訳に「皮膚ー自我」言叢社)。パパン姉妹。ジュネ「女中たち」のモデルになった殺人事件。…


 本棚を整理。14年くらい使ってきた黒い本棚がもう寿命のようだ。何トンの本をこれまで支えただろうか。もうすぐお別れか。以前も書いたかと思うが、最善の道は図書館の近くに住むこと。しかしやはり資料的に持っておきたいものがある。どうするか。って、またか。
 でも上演活動と読書を組み込んできたことで、ずいぶん、読めた。むろん、まだなにも読めてないともいえる。読書、とくにそのパタンはおそろしく無限である。しかしそのような感覚は、時間が無限にあると仮定してのことだ。かといって、時間に限定つけると、へんに実存主義的な切迫感に追われ、これはこれでなにも読めない。
 だらだらと読みたいとも思うが、あんまりだらだらすると、字面を追うだけになる。スピードをあげると、また同じことになる。そうはいわないにしても、最後まで読まずとも、自分のなかで思考のスピードがはやまって、図式が作られてしまうと、中途で満足してしまうことになる。パズルに近い。スリルが減ることほど読書の快楽にとって害悪なこともない。
 なにかのスポーツに、読書は似ているとも思う。やったことないが、サーフィンみたいな感じだろうか。水泳のようでもあり、スキーのようでもあり、ボクシングのようでもある。
 ダンスかというと、違う。ダンスはもちろん、身体運動であるが、ルールはかなり自由だ。ガチガチルールのダンスもあれば、睡眠のようなダンスもある。ダンスの定義論・意味論もずいぶんなされた。レイナーとか、土方とか。メタダンスとかもいわれてるベルやルロワの仕事もある。快楽・享楽という契機はたしかにはずせない。しかしそれがなんであるのかはできるだけ見定めた方がいい。というか見定めるという快楽の方が強いこともある。
 快楽の読書もあるし、苦行して思考なり見方なりを建築していく読書もある。後者にもむろん快楽がある。…
 やはりフロイトを読もう。快感原則と現実原則のあたり、ものすごく重要な気がする。