予言について

なんでこんな循環になったかというと、いくつも文脈があるのだが、なにより、占いに脅かされたからだ。
「おまえは必ず失敗するだろう」これは、実質的には呪いである脅迫だ。むろんそこには、条件が付加されている。しかるべき努力をすれば、と。しかしあんた、せこい金とって、そんな論理的にはだれにも当てはまるような脅迫的な疑似予言(これは予言ではなく、たんに人生処方箋を述べているだけだ。しかも、ひどく陳腐で退屈な)を職業にするひまあるんだったら、世界を予言したらどうだ?その意味で、世界宗教を創成したザラスシュトラとかシッダールタとかキリストとか、ノストラダムスでもいいが、世界へのヴィジョンがあり、思想商品として、面白い。
 まったく今日の占い産業も、人類学的には世俗化されたシャーマニズム現象としては面白いのかもしれないが、私には面白くない。
 そもそもマルクスでもシュンペーターでも予言してるし、その意味では、かれら思想家も予言者である。
その予言者がどんな理論的・実証的根拠で予言するかであるが、それもまたゲームなんだってば。

 私は私なりに、ゲームをする。そして努力もする。手の打ちようもなくなったら、リセットすればいい。またゲームがはじまるだけだ。50歳になろうが70歳になろうが、新たにゲームを始めることもできる。死ぬときは死ぬし。事故で死ぬだろう?あたりまえだろう?病気で死ぬだろう?あたりまえだろう?
 自殺するときは、それは自分で決めるんだから、遺族に迷惑かけるかもしれないが、まあよい。
 孤独死だろうが、惨死だろうが、死は死。

 だいたい、上記の占い理論がずるいのは、これで、私が今後成功したら、あのときあそこであの声を聞いたから努力に向かったといえるし、また他方、失敗すれば、あのとき、あの声を聞かなかったからだと、いずれの場合にもあてはまるように構成されている。その意味では、言説戦略としてはそれなりに巧妙ではある。だから、占い産業が成立しもするのだろう。
 しかしねえ、人生の指針は、なにも職業占い家だけが独占するものでもない。
 上記したように、いわゆる思想も、人生の指針を与えてくれもする。それからあとは、むろん各人の努力と創意によって、展開したりしなかったりする。
 
  私は私なりに占いをやってもいるわけだ。当然だ。未来を展望したいがゆえに、いろいろ読書したり考えたりしてる。それがなんになるかって?それがなんになるか知らんよ。でもそれが楽しいのだ。

 私が私なりに人生を楽しんでなにが悪いというのだ。絶望することすら、その絶望自体が楽しいから、ということでもある。

 私の敵は私だ。そして、お前の敵はお前だ。だからゲームだってば。


(といって、実際にお金払って占ってもらったことがないわけで、なにをいわれるか大体予想はつくけれど、好奇心があるにはあるので、今度行ってみて、実地に脅迫されてみよう。というか、問答してみたい。)