ナン→[memo]経済をめぐる夢と絶望/価値の政治

しかし経済的なものに限定されないところに快楽を見いだすゲームもある。つまり経済的達成を最終目標としないゲーム。その場合、経済は、ゲームを持続させるための手段あるいは条件である。

 チェスのアレゴリーからすれば、これはたんに負け犬の慰みというだけでは終わらない。

たとえばベケットは、若いときの極貧生活というかヒモ生活のなかで、「貧しさ」を原理とした文体を見いだした。そして、それが贋金となり、大金持ちになった。(経済的にというだけでなく、幸福の指標としての死後の名声=名誉のモラルという観点からも)

 ジッドに「贋金つくり」というのがある。まだ読んでない。

芸術論は、経済論からすると、ルーザーとされ、それでロジカルに終わり、とされる(というロジシャンがいる)。
しかし贋金という視点からすれば、芸術はすでに経済論を織り込んだうえで、活動しているともいえる。
 デュシャンの「革命」はまさに「贋金つくり」の最適な事例である。

 経済論からすると、市場の存在は絶対的なものとして扱われている(ように語られることがある)。
 しかし「贋金つくり」の視点、これはもしや構築主義的な視点かもしれないが、からすれば、市場のコンセプト、商品のコンセプトの再編成が、新たに市場を再編成することもある。シュンペーターのイノヴェイター。

 このへん、価値の問題。意味というか価値の政治。
 
 いやだから、なにに価値があるのかは、「ひとそれぞれ」ということで終わるのでなく、もちろん社会的に承認されるかされないかで決定=構成されている。
 承認を巡る争い、つまりは政治、もっといえば政治ゲーム。それぞれの「業界」=個々の社会的世界での、こうした政治は、やはりチェスのごとく、無限に続く。死ぬまで。終わるまで。終わった。そして。また始まって、終わる。また始まる。しょうがない。歴史が終わったといわれてからも、また歴史は続く。
 終末論、それはそれでいい。閉じた終末論を選ぶこと。始まりを選ぶものもあるし。(繰り返し)
 なぜか?それは人間が滅亡していないから。言語が消滅していないから。

 かく日々は循環する。