観察の倫理


「茫然自失」ということ。かつて「脱自」というジャーゴンを聞いたことがあったが、あの語の出典はだれなのだろう。それはともかく、ちょうどいまラカン伝を読んでいて、以外とバタイユの影響が相当強いことを知った。ラカン精神分析保守派の「自我心理学」を批判するなか、あのような主体と欲望の統一理論を築き上げていったようだが、田中泯笠井叡らの踊りにも、「自我なし」がある。起源はむろんバタイユである。土方巽公は、かつて「消頭ダンス」を稽古の課題でよくやっていたという(「土方巽全集」河出書房新社所収のインタヴューによる)。バタイユのアセファル。「無頭性」。「近代理性」あるいは「近代的な自我」(いまや懐かしい響きがある)よりの逃走=闘争のなかでつむがれたこの戦略の有効性について簡単に話を終わらせるわけにはいかないが(つまり「モダン」はいまなお根本問題のひとつであるから)、この戦略のさなか、ラカンも同期しながら、ファシスムと極めて危うい関係をとっていったのだった。
 いまだ「主体」の問題をどのよう考えればいいか判然とはしない。selfとsubjectとの違いのひとつに、後者の語に内包される帰属性がある(ちなみに田中泯のいくつもあるシリーズの内のひとつにsubjectシリーズがある)。つまり社会関係なしのself自己はありえないということ。そうであれば、「自我」のカテゴリーそのものの有効性はやはり疑うべきである。
 しかしながらカテゴリーとしては「自我」はやはりある種の説得性=分かりやすさがある。これが陥穽ではあるということ。つまり関係性を重要な「主体」の「内的」要素として踏まえること。
 そしてまた、関係性に還元することなく、「主体」の問題を考えていくということ。

 踊りを見るとき、ある意味なりイメージなりのカテゴリー操作的な判定で終わらせることはよくないと思う。そこで起こっている出来事を、まずは意味カテゴリーに収めることで安心するのでなく、とりあえずは、「観察」すること。これは実は倫理ともいえる。

 ラカンの仕事は、フランソワーズ・ドルトとのよきコラボレーションを経て、さらに進展していったという。ドルトらの証言によれば、他の精神分析医の厄介者となった患者(分析主体というらしい)や、また当時は分析を断られていたという同性愛者らの分析も引き受けたという。このデータがなんとなく反響している。

しかしまた、観察が倫理だとしても、その前提的な作業にとどまることで終了してもだめである。

 ・観察・記述のレベル
 ・理論化(メタ化)のレベル

を区別しながらも、双方の間を縫っていくということ。これはむろん自分への課題として。


 ラカン伝はアルチュセールのところまで来た。若きミレールが出てきたが、すでにもう叩かれ始めている。剽窃妄想が強く、しかしものすごく図式的な理解が上手であったというミレールを、すでに疲労していたラカンは信頼した。
 図式的な単純化が、理解を助けることに寄与するのなら、いい。が、やはりそこで理解した気になるという陥穽がある。こと精神分析に関しては、私もその入門者にありがちな過ちを犯していた。これからも犯さないようにしないといけない。
 
 それにしてもこの素朴な問題は、実は普遍的な問題だと思われる。だからメモした。