マイノリティ・リポート

最近スティーブン・スピルバーグトム・クルーズの「マイノリティ・リポート」を見た。非常に面白くて、驚いた。SF映画なんてまともにはもう10年以上見てないが、これだけ楽しめるとは思ってもいなかった。「トータル・リコール」以来である。この二本と「ブレードランナー」ということになると、やっぱりフィリップ・K・ディックって、面白いのだろうなと思う。ディックはまだ読んだことがない。
 ネットレヴューではD級とか難解とか書かれていたが、いずれもどうかと思う。前者はディック原作と比較して、プロット主義的に、だめだという。まあ、説明的なこどもだましの娯楽だと。しかしまあ世にはあれを難解ともいうひとがあるのだから、あの程度の咀嚼は全然いいだろう。(難解だというひとは何度も見れば分かるだろうと思う。ただ、展開の速度が速いのはたしかである。)そもそもディックの原作と比べるというのが、私には映画を見ることとしては違う気がする。だいたい、原作は原作で、小説である。メディアが違う。映画は映画である。「マイノリティリポート」のすばらしいVFXが、小説で記述することはできない映像がまずは重要で、視覚像の運動が、そもそも映画メディアの根本である。むろん、音、プロット(小説)も根本要素ではあるが、メディアを比較するなら、やはり映画は視覚優位である。実際、映画は、絵画、写真の視覚芸術と、演劇の舞台芸術とを統合するようなものとして20世紀に現れた。その後、映画は、芸術の頂点として、君臨し、いまにいたる。実際、映画に比べれば、絵画も音楽も舞台芸術も言語芸術も、「部分的」なもののように感じられる。
 いいたいのはプロット主義である。ポーリン・ケイルの映画批評もプロット主義ともいえるが、さすがにプロット女史は綿密なので、批判されるには及ばない。
 プロットの甘さを突いたところで、それはないものねだりである。文字を通じて想像する小説を読むことと、総合的視覚芸術とでもいうべき映画を見ることとを混同してはならないとおもう。つまりプロット主義者は映画の視覚性を、VFXを楽しむことができないというだけのことだ。
 もうこの10年私は映画を、入場料の高さで見ることはほとんどなくなってしまったのだが(中学のときは毎週見ていた。二本立てだったし、入れ替え制でもなかったので、面白い映画のときは、二回見ていた。ずっと座っていたかった。ごく普通に私も映画を愛していた。だがいくらレンタル業界のせいでとかいっても、1800円でしかも入れ替え制というのはあんまりだ。1000円が妥当だ。舞台は、映画と異なり、上演回数が限定されているので、高いのはしかたがない。とはいえ5000円が上限である。それ以上はやはり出せない。これはむろん個人的な価格感覚である。)、これは映画館で見たかった。
 でも998円という驚くべき値段で、いまDVDが売ってあって、300円でレンタルするよりも、購入すれば何度でも見ることができるわけで、実に安く、うれしい限りである。文庫とか新書の値段でこのDVDが手に入るとは。著作権が切れた映画のDVDもいま500円で売ってある。1000円のDVDは20世紀フォックス(私はこの企業名が世界で一番かっこいいと思う。)やワーナーが出している。どんどんこれからも出して欲しい。
 
 「マイノリティ・レポート」のどこが面白いかについてきちんと考えてみたいが、映画批評はすごく発達でしてるので、難しい。
 驚いたのは、照明である。あのじいさん(名前忘れた)の部屋の照明は、ぞくぞくした。カーテンから斜めに切り込む照明と、室内の明るさとの微妙な関係。
 屋外の青白い光。「フィリップ・K・ディック・リポート」早川文庫によれば、これは銀残し=ブリーチ・バイパスという手法らしい。撮影監督はヤヌス・カミンスキー。というかこの文庫に収められた文にほとんど書いてあるので、それを写してもしかないのだが、まあこの紹介文に関係なく私が見て面白いと思ったのが、眼の主題であった。とくに私は個人的に左目を手術してもるので、アンダートンが眼球交換手術を終えたあと、「スパイダー」に左目をやられるシーンは、ひいと感じたものだ。キューブリックの「時計じかけのオレンジ」のラストも思い出した。
 また、トム・クルーズがかっこいい。「トップガン」や「カクテル」を見ていた当時は、アイドルにすぎないと感じていたが、「アイズワイドシャット」や「エージェント」や部分的にテレビで見た「ミッション・インポッシブル」、この「マイノリティ・リポート」を見てしまうと、ファンになりそうである。まあさすがにクリストファー・ウォーケンとかウィレム・デフォーとかデニス・ホッパーとかアンソニー・ホプキンスのような演技の味は出せないのかもしれないけれど(この四人の演技で想定しているのは変態系の役であるが)。
 

 リドリー・スコットの「ブレードランナー」は基本的にフリッツ・ラングの「メトロポリス」を基礎的なイメージフォーマットとしながら、チャイナタウンあるいは香港のような中国系メガロポリス=摩天楼都市のイメージを重ねてあるが、この「マイノリティ・リポート」の場合は、日本の東京の都市イメージが重ねてある。
 mさんもコメントで応答してくれた、垂直の道路を落下していく自動車(文字通りの自動車。都心部の交通は完全に自動化されていて、「手動」ではない。ただ、田舎はいまと同じなので、手動でも運転できる、と設定=想像されている。)を伝って逃げるシーンは、スーパーマリオなどのテレビゲームのイメージである。テレビゲームは別に日本の専売特許ではないのだが、スーパーマリオは、KYOTOの任天堂が作ったものである。
 また、先のじいさんの部屋は、なんとなくであるが、日本的な柔らかな室内照明である。台湾の映画の室内っぽくもある。家具が黒いので、ここは中国系か。
 新しい眼球になったアンダートンが、アガサの服を買うために入るGAPの入り口での網膜検査マシンが、「ようこそヤカモト様」といい、アンダートンは自分の新しい眼が、「日本人」(日系人)であることを知る。
 

 時代設定は2054年に設定してあり、「未来」の像を作るにあたって、スピルバーグらは、「リアリティ=説得力」を考慮にいれたという。50年後のワシントンD・Cには、リンカーン像も古い観光地もそのまま保存されているだろう、とか。
 ただ、交通システムなどはテクノロジーによる合理化が進むだろうから、あのようになるかも、と想像されたという。

 映画史的な参照=引用としては、ヒッチコックの「海外特派員」やジョン・ヒューストンの「キー・ラーゴ」や「アスファルト・ジャングル」、また前記したキューブリックがある。これまたネットで調べているうちに、さる映画研究者の方が、スピルバーグを、ヒッチコックの後継者として位置づけていた。この映画史的妥当性の検証はこれからのことだとしても、たしかにスピルバーグを無視することはできない。というのも、私(あるいは私の属する世代)にとって、個人史的にもスピルバーグが映画の代表であった。私がはじめて買ったレコードは「ジョーズ」のサントラだったし、「E・T」でETが冬の川で白くなってた
ときには泣きそうになったし、「インディ・ジョーンズ」はどんな遊園地よりも楽しかった。そうだ、私は中学であの寮=アサイラムー収容所生活を送っていくなか、ホラーにはまっていったのだった。「ザ・フライ」とか「プレデター」、「ハンバーガヒル」などの戦争映画(しかし「プラトーン」などよりもこの「ハンバーガヒル」の方が断然いいと当時は思ったものだったが、どうもDVD化されていないようだ。→DVD化されていた。ハンバーガー・ヒル [DVD])、「エンゼル・ハート」「ミシシッピ・バーニング」の南部もののおかげで私はその後、アメリカ黒人文化に開眼する基礎を作ってもらう。また、題名が思い出せないのだが、南北戦争を描いたものもあって、あれを見直したいのだが、分からない(はてなに聞けばいいのかw)。msくんに示唆されジョン・カーペンターを見直そうと「ゴーストハンターズ」もこないだ買って見た。懐かしかった。「遊星からの物体X」も見直したい。当時は雑誌の「ロードショー」は毎月購読していた。「スクリーン」はちょっとおっさんくさかった。「ロードショー」の方が、女優というかアイドルのグラビアが多かったのだ。しかし集めていたこの雑誌も、所持品検査で30冊くらいすべて没収。あとであれはエロ本ではないと訴えたら、じゃいいよということで返却許可が出たが、時すでにおそし、回収業者はすでに持っていっていた。シンシア・ギブのポスターをイデタは破るし、まったく、あのクソ寮は、懐かしくてたまらないw
 つい追憶に耽ったが、スピルバーグを結局バカにするようになったのは、シネフィル的洗礼を友人を介して受けたからだった。
 ゴダールを代表とするフランス映画における新批評革命は、映画に斜線を入れるわけだが、この斜線を引かれる主体は、アメリカ映画なのであり、うまり映画の主体は、アメリカ=ハリウッドなのだった。いやこんなことは当然のことで、このことを確認したいわけではない。スピルバーグのことだ。ヒッチコックスピルバーグという系列。
 ヒッチコックは映画の神様とされている。そのことを疑うことはできない。ではこの肉屋の息子として育った元デザイナーがいかに映画の王となったのか。なぜオーソン・ウェルズでもジャン・ルノワールでもロッセリーニでもなく、ヒッチコックなのか。
 ひとつにはトリック、もっと正確にいえばチープ・トリックの技術がずばぬけていることがある。…中断。「海外特派員」も500円だったから買ったので見直してからにしよう。

 「マイノリティ・リポート」における他のポイントに、展開の速さがある。これはスクリューボール・コメディから来ているのであろう。ダンスでいえばドイツのコンスタンツァ・マクラス&ドーキーパークがこの様式を取り入れていた。
 しかし考えてみれば、スクリューボール性は「マイノリティ・リポート」にあってはアクションのシーンのみだ。全編それが貫かれているわけではない。
 この映画のリズムはむしろアニメーションのリズムに近い。以上、メモ。