自然と模倣

桃花村の「重力と愉快」がとにかくまったく面白くなく、いままでの桃花村の舞台を見てきた中で、最低だったのだが、その理由は丁寧に分析してみたいとも思うが、備忘もかねてとりあえず思いつく書くと、紐によるフレームというのがあまりにステレオタイプだったこと、田中泯がソロで見せる絶対的とも見える質的強度が、おそらくは「愉快」というコンセプトによって、現れなかったということ、これはそこに連なることだが、「犬」の踊りが、滑稽さを獲得することもできなかったこと、したがって、ラストの縄跳びも、共同性を志向する児戯というイメージから出ることがなかったことなどが挙げられる。むろんこれは私の印象においてである。他の人がどのように印象したのかは分からない。
 aは子供と動物を舞台で使用するときはよっぽどのコンセプトがないとまずいといった。この観点は、たとえば勅使河原三郎の「ラジパケ」の時にも言われていたことだ。「ラジパケ」は、「ラジパケ」とほとんど変わるところのなかった「ラジパケII」が、なぜ再演でなく「II」と表記されたのかまったく分からない、というより詐欺だろう、と思った点を除けば、結構好きな作品である。それはともかく、この観点が提出する問題には、自然と模倣の問題が潜んでいるのだろう。
 舞台とは、徹頭徹尾、模倣=ミメーシスである。ミメーシスはジャンル問わず、あらゆる芸術にあてはまる原理というか、本質である。そういうミメーシス=模倣に、子供なり動物なりの「自然」が入り込むこと。
 いやそうではなく、まず問題はもっと素朴だ。「子供」なり「動物」なりを出すことが、なにか「許される」ことを要求しているような、なにかあたかも免罪符になるかのような、そのようなある弛緩した事態のことが、問題なのだ。これは自戒のためにも、つめて考えなくてはならない。「子供」「動物」という「自然」がミメーシス空間に立つことで、なにが要求されているのか。これは、創造行為におけるモチーフだとかテーマとかいう方法論上のことではない。むしろ、方法論によっては意識されていない、舞台での表現行為そのものがはらむ社会的機能とでもいうべき、より根本的な、その意味で、表現行為の本質に関わる問題である。
 こうして、やはり問題は、ミメーシス空間に「自然」がはいりこむことの問題となる。「自然」をミメーシス空間に導入することは、ダンスにおいては、イサドラ・ダンカンによるモダンダンス革命の戦略でもあった。しかしダンカン的な「自然」とは、あくまで自然の模倣=ミメーシスであり、そのミメーシスの対象である「自然」そのものではなかった。ここは、認識対象である物そのものを認識することの不可能性と可能性の境界を定めようとしたカントの「物自体」とかの話しにも絡んでくるのだろう。それはともかく、では「子供」「動物」はどうか。これはミメーシス化された「自然」ではなく、「自然」である。「子供」については、微妙なところもあるが、意識があるとはいえ、「大人」のそうした戦略について知るところがないと十分想定できるから、やはりミメーシス以前の自然であるといえる。ちなみに桜井圭介さんの「こども身体」とは、もちろん、ミメーシス的なものであり、日本のダンス界におけるコンテクストとしては、批判的カテゴリーともいえる。だが、しかしやはりそこは「こども」=自然という概念上の親和関係がどうしても保持されるため、その概念が伝播していくとき、当初の批判的含意が見失われ、結果、「子供」=「自然」がミメーシス空間に立つということが許されるということも、ありうる。こうなると、いま問題としているようなプロブレマティックと同じ問題になってしまう。
 さて、ミメーシス化される以前の「自然」とは、ミメーシス以前の「自然」とは、しかし、そもそもなんなのか。
 ここでいうnature=自然の問題は、しかし動物、植物、鉱物うんぬんといったいわゆる自然界のことではない。そうではなく、人間と対立項関係にある自然という問題である。その意味では、非人間的な世界である自然界は、人間的世界と対立する限りにおいて、問題となる。古代ギリシアでいうピュシスとノモスの対立関係である。
 自然観念の歴史はまた調べないといけないが、ヒュームの論考の題ともなっているhuman natureの概念がある。そういえばヒュームと同時代人のルソーにも、「自然回帰」の傾向があった。いや、「傾向」どころか、あれはモロか。ルソーのような自然と対比された文明批判が、その発想のネタをどこに持っているのかいまは分からないが、やはりルネサンスなのだろうか。
 この近代文明批判としての自然回帰、自然主義の問題とは、大きくいえば、ロマン主義のひとつの傾向の問題である。
 その意味で、このエントリーで問題化したかったこととは、ロマン主義ステレオタイプ的な意匠のことであった。
 そしてこれは、いわゆる「即興」を批判する時に持ち出される問題図式である。つまり、「即興」が批判されるとき、それは、自然主義を批判しているのである。
 この「即興」問題について私は、たしかに「即興」は自然主義に陥ってしまう問題があるとしても、それは自然主義が問題なのであり、技法ないし方法論としての「即興」それ自体に問題があるとは考えない。

 ところで、この「自然主義」問題には、「自然」としての「感情」の問題、また「感動」体験の機構の問題などが絡んでくる。これはとりわけ上演系芸術に特有なことかもしれないのだが、ある「感情」が、ダイレククト=直接的=無媒介的に、伝達されることで、「感動」するという機構の問題である。たとえばある歌手の声、あるダンサーの動きに、「感動」するというとき、それを自然主義の問題としてかたづけることはできないのである。
 しかし、そのようなコミュニケーションが成立するには、やはりある特定のメディア(声とか、音とか、動きとか)を介在しているのであり、それは「自然」というか、やはりミメーシスの問題である。

以上、まとめるなら、「子供」や「動物」をミメーシス空間に導入するとき、そこには、「自然主義」というステレオタイプの問題があるということ、そして、その「自然主義」に甘んずることは、ミメーシスの本質上、非常に厄介な問題があるということ、その厄介さを方法的に意識することなく導入することは、単に怠惰であるということ、それゆえ、それは弛緩された弱いものとなるということ。なお、ミメーシスによるコミュニケーションそのもの(たとえば「感動」体験など)の問題は、自然主義の問題ではなく、ミメーシスの本質問題であるがゆえ、問題のクラスが違うということ。
 

 cf.美学の概念に、「感性的自然」というのがあるらしいが、未調査。