ハヴロックのプラトン

エリック・ハヴロック「プラトン序説」新書館
第一部 image thinkers(イメージで考えるひとびと)、第一章「プラトンの詩論」より。
 
プラトン「国家」は、政治論というよりも、教育制度批判であった。
詩は「精神を不具にする」(595b5)。詩は、精神を害するドラッグであり、真理の敵である。

「名声や金銭や権力の誘惑をものともせずに、あるいは詩の誘惑さえものともせずに、正義と徳に忠実でありつづけようとする戦い」(『国家』608b4)

詩的経験、あるいは美的経験は、ドラッグである。cf.パルマコン

詩人が用いる音響効果は、われわれの知性を混乱させる(603b6-d3=Havelock,p.21)

「魂の内なる国家」(608b1)を守らなくてはならない。
プラトンは、異なるジャンルとしての叙事詩と悲劇との間に、形式的区別をつけない(603c4)。
模倣がなにを模倣しているかといえば、それに対して喜びとか悲しみを感ずるような行為である(603c4)
演劇批判という側面に関しては、当時のラプソディスト(叙事詩語り)の観客との関係が、演劇的であったということを忘れてはならない(Havelock,pp.24-26)。
伝統的な詩は、道徳という観点からいかなる指針をと与えるのか。なにも、与えない。すくなくとも、語れた物語を真に受けるならば、というのがプラトンの解答である(H,p.27)。
プラトンは、詩の検閲を提唱する。
演劇的な表現形式への敵意。つねに望ましいのは、純粋に記述的な表現形式である。(H,p.29)
→美的経験それ自体と、この経験の大部分をなす想像力の作用への敵意。
「国家」で示されるプログラムは、純粋な道徳原理を抽出するためのものである。
しかし、道徳は理想であるが、報われない。たいていは、原理を欠くほうが有益であり、シニシズムを選ぶしかなくなる。真実の実践よりも、対面を保つことが優先される。しかしこれは道徳の内的原理を犯すことである。
「国家」の批判対象は、ギリシアの伝統的な教育制度である。その教育制度で行われることは、ホメロスやヘシオドスの詩的言語の学習である。
 「絶対的な道徳」(H,p.32)は、現行の道徳と対立する。
以上、第一章。


cf.その際、「有用性」という観点も考慮される。