ローティ
リチャード・ローティ「リベラル・ユートピアという希望」を読んでいる。
原書は、Richard Rorty,Philosophy and Social Hope.Penguin.
当然なのかもしれないが、原書の方が安い。しかも装丁は断然、原書がいい。ローティのこの翻訳本の装丁といい、ジェイの翻訳本の装丁といい、どうにもダサい。翻訳を出してくれるのはありがたいのだが、こうした人文本の装丁のダササには実に閉口する。そんなことはどうでもいい瑣末なことだし、また文句いうなら買うな(ひとの努力も知らずに)と、必ず出版社はいうだろうが、いやいやデザイン=装丁は重要だ。
◎「相対主義:見出すこと(finding)と作り出すこと(making)」(第一章)
この論文は、ローティらに対する「相対主義」と批判への応答である。
・反プラトン
プラトンないしギリシャ的な区別への批判。
→「現象」を貫いてその背後の「実在」に至るという考え方。
・反カント
道徳と分別とのカントによる区別を採用しない。
カント(倫理学):無条件に文化を横断するような道徳的責務、不変で歴史に左右されない人間本性に根ざすような責務があるとする。
・プラグマティズムとニーチェ
反プラトン、反カントというスタンスによって、アメリカン・プラグマティズムとニーチェとが結びつく。
ローティは、ヨーロッパ哲学におけるニーチェ主義の系譜に属するものとして、ハイデガー、サルトル、ガダマー、デリダ、フーコーを挙げているが(p17)、ここには、むろんクロソウスキーやバタイユ、ドゥルーズを付け加えることができる。
また、プラグマティズムの流れを「ダーウィンの流れを汲む」としながら、ジェイムズ、デューイ、クーン、クワイン、パトナム、デイヴィッドソンを挙げている。
・ドグマ
わたしたちはただ、古臭くなったある特有のドグマを批判しているだけだ。しかしいうまでもなくわれわれがドグマと呼んでいるものは、敵対者にとっては常識にほかならない。敵対者のいう合理的であるとは、われわれからすればドグマに固執することである(pp12-13)
つづく。