芸術-産業、続き

5/4のエントリー「芸術-産業」http://d.hatena.ne.jp/kairiw/20060504/p2についてのZndonくんのコメントへのレス。しかし、漠然と大変な問題に触れているにとどまっているので、今後、もっとこのあたりはちゃんと整理したいので、備忘のために、エントリー化しておきます。

(…)まあ、交換価値といっても市場価値といってもいいのだが、芸術に限らず、ダイヤモンドがなぜ高価なのかということを考えると、わかりやすいよね。君のいう「実体的価値」とは、最低限ひとびとが生活するに必要な商品(衣食住とか)の持つような、いわば「必然性」のあるような価値のことを指していると思われますが、そのような「実体的」「必然的」な価値が、芸術やダイヤモンドにあるわけがありませんね。それなしにもひとは当然、生きていくことができる。しかしにも関わらず、そうした奢侈商品は、これまで経済文明が発生して以来ずっと求められてきたし、いまもそしてこれからも求められるのはなぜかと。むろん、そこにはひとびとの欲望の問題があります。ヴェブレン=ブルデューなどのいう衒示消費とかですね。つまり、宝石は、虚栄欲を満たすためのものであり、その値段=価値は、それがゆえ高価に設定されている。それが安価になると、宝石という商品は、現実的に機能しなくなる(虚栄欲を満たさない)。このへん、厳密に専門的にいえば、いろいろ違うのでしょうが、とりあえずこんなところで。で、そういう商品論・経済学的な価値を超越した価値が、宝石にあるか?それをとりあえず「美」の価値とすれば、そのようないわば「本質的な」ないし「超越的な」価値が、宝石というモノに、備わっているのか?この問いにどのように答えを出すかはさておくとして、この問題は、芸術の問題でもある。
 ところで、芸術が産業であるとして、そのマーケットのなかではなにが賭けられているのか?宝石が経済的な市場価値を超越して持つような価値が、芸術にあるのか?
 これまたおもいっきり、芸術とはなにか?という話なのでめんどくさいのだけど。
それで、典型的な事例として、h氏の絵画には全く興味が持てないので事例を変えますが、ゴッホの絵の値段をあげましょう。数十億とか何兆円かしらないけど、まあものすごいわけですね。現在の美術市場におけるゴッホの絵という商品は。さて、では、価値の恣意性原理を持ち出して、ゴッホの絵がはたして無価値といえるのか?
 でまあ僕はゴッホを無価値とは考えない。その根拠となると、ゴッホ論になるので、いまはおくとしても、さて、では、ゴッホの絵の市場価格と、ゴッホの絵がすばらしいということとのふたつのレベルの間にどれだけ正当な対応関係があるのかとなると、これは怪しいわけですね。つまりゴッホの仕事は、どれだけのマネーが動こうが、そうしたマーケッターの経済的行動ないし経済的な世界を、やはり超越している。別の事例を補足的に出せば、ゴッホに匹敵する仕事をしたアルトーの仕事(彼の「絵」も含めて)もまた超越している。(しかしアルトーの絵は安いというか、市場に出回ってない。こないだびっくりしたんだけど、10年前とかの美術手帳読んでたら、「アータウド回顧展」とあって、みると、アルトー絵画展のことだった。そのひとはNYにいるジャーナリストのようだったけれど、すごいなあと思いました。まあこれは日本における翻訳問題というか文化状況を示すもので、ここでいうと、そもそも「芸術」なるものが、社会のなかで機能していないということかと。まあ、「ヨーロッパ芸術」「近代芸術」もどうにも、20世紀で世界の軸がヨーロッパからアメリカに移り、ついでいまインド中国のアジアに移ろうとしいているなか、ますますそうしたかつての「西洋」=「近代」は必要なしと判定されていっている(ように見える)。つまり、日本のポストモダンって、こういう世界の産業システムの転換を兆候するものだったのかとかいま漠然と思います。ま、とはいえ、逆に言うと、ヨーロッパはますます巧妙になっているのかもしれないけど。でもドイツにいったときに見た、ドイツ人の無気力ぶりには、実際、驚きました。シュペングラー、実体化したなとw)
 さてまあ、バブル経済的な市場価値がはじけるかもとかいう話は、まったくそうで、だからこそ今後そういう転換があると面白いなと思います。
 で、ではだれがそうした作品=商品の価値を決めているのか。やっぱりアート商品でも、供給側と需要側がいる。そして交換の均衡点はえらく不均衡ですね。あるいは複雑である。これは文学でもそうだし、また思想という言語商品でも、学問でも、そういう交換過程がある。ある価値を捏造する供給者=生産者がいる。そしてそこにはむろん労働力が投下されているw で、その君のいう実体的な労働に見合った価値があるかなんてことは、ゴッホの絵でもデリダの書籍でもいいのだけど、それらの市場価格に、はたしてその商品のコンテンツがどこまで対応しているのかということだよね。
 まあこうした価値システム内でいろいろと闘争があるわけで。
 あ、これってやっぱ商品の質的分析になるのか。商品の品質ね。うーん。周りを回ってるだけだなー。

さて舞台業界において商品の品質はいかに?ということで、君は「コクーン演劇」を出しているけれども、まあどうなんだろうかねw ま助成金バブルといっても、IT産業だのなんだと比べたら、なにが問題となるかなと。
 
現場の実践的観点からいうと、経費は、なによりも場所代なわけですね。で、おそらく日本における舞台業界のチケット代の「実体」は、場所代がその半分以上をしめているのではないかと。つまりコクーン演劇でいえば、まあ助成金などそういうこともあるけど、なにより、マネーは東急に落ちてるわけでしょう?いや内実は知らんけどもさw 一日の場所代、コクーンは知らないけど、百万以上でしょうしね。仕込み含めて二週間とかなると、1400万円とかなるわけで。それでスター俳優使えば、ワンステージ百万だとかなんだとかw まあ、エンターテインメント産業のフレームで考えないと、あの手のものは語れないのではないかとぼくは思います。

 いずれにせよ君の出した価値の恣意性の問題は、経済にまつわるすべての事象に関わる問題だと思います。ですので、大変だよねw