ZnDon 『>「アータウド回顧展」

笑えました、アータウドってどこの移民だよw 本格的なレスは後ほど。またはkairiwさんが書き足すのを待ちます。』(2006/05/09 22:34)
亜鉛どん 『体調が整ったので復帰。すみません、やっぱり先に書かせてもらいますw 「価値の恣意性」というのは、うまい言い方ですね。糸圭さんも宇野弘蔵の「労働力商品化の無理」を応用した形で、いわば芸術商品化の無理と呼べるようなこと(もちろん、この「無理」というのは、芸術が商品化されえないほど素晴らしいものだという意味ではない)を言って、等価交換はフィクションだと述べるわけですから、つまりそれは等価である(とされる)商品Aと商品Bの間には何の必然的なつながりもない、したがって恣意的なつながりということになります。それに柄谷行人も『マルクスその可能性の中心』で、ソシュールの「観念と音の連結は徹底的に恣意的なのである」に重ね合わせて、相対的価値形態はシニフィエであり、等価形態はシニフィアンであると言うわけですから、まさしく「価値の恣意性」という言葉はこの議論に適していると思います。

そしてソシュールの「恣意的」とはフランス語の《arbitraire》ですが、この語は「独断的な」とか「横暴な」とか「勝手な」という意味を表わしています(まあ元々日本語の「恣意」という言葉も似たような意味ですが、「恣意」は普通、言語学の術語としてしか使われないから、元の意味内容が薄くなってますね)。つまり《arbitraire》な連結とは、無理矢理、独断的に決めてしまったために何の理由付けもない強引な連結ということになりますから、「価値の恣意性」という言い方は、宇野が等価形態を相対的価値形態の商品所有者の欲望の表現として捉えたことに注目する糸圭さんの思考とも、独断的に決めるということと欲望するということとの類似において、重なり合うと言ってもいいでしょう。

ですから、経済にまつわる全ての事象というか、全ての商品の価値が恣意的なのは、いわば当然なのですが、しかし、ここでは糸圭さんの立論に従って、全ての商品の価値が恣意的だということが暴露されるのは、「労働力」と「芸術」という、それぞれ「無理」矢理に他の商品と等価とされるもの(まさに等価交換の論理のリミットにあるもの)のその「無理」矢理さが暴かれたためだということから、その一つである「芸術」に価値の恣意性の問題を集中させたわけです。まあ確かに商品の細かい質的分析は今の僕の手には余るのということもあるのですね。そういう分析のための手段を持っていない。近いうちに教養として近代経済学を勉強しようとは思っているのですが、今はそのために数学を復習している段階でしかないのです。そのせいで大まかで図式的な見方でやっているところもあるんですね。それでも「労働力」と「芸術」の価値の恣意性に注目することで何か見出されればと思います。

それで前の書き込みでも挙げた芸術に対してのボランティア(労働力)というのは、面白い現象だと思います(まあ例示しなくても大体分かりますよね。実際、演劇祭でも美術展でもボランティアばかりです。また芸術家自体、多くの場合、自分の作品に対するボランティアと言えるのではないか)。まず前に同じようなことを言って別の人に誤解されたことがあったので、それを避けるために先に言っておかなければならないのは、僕の前の書き込みは、ボランティアが、芸術家や制作者などの使用者側に騙されて無賃労働に合意させられていると言いたかったわけではないのですね。使用者側の陰謀論みたいになってしまうと、まあ安直な類の搾取論や疎外論にしかなりませんね。そうすると解決策として、平等にするために、まあお金を払うのは無理だから、権利を与えるくらいしかない。発言権とかですね。したがって集団創造とか主体的な参加ということになるわけですが、それは当然に欺瞞的にもなりうるし、それによって簡単に作品の質が高まるわけではないし、もちろんボランティアの生活費(それを支えるのは本人のバイトとか親の貯金とかですね)が増えるわけでもない。つまり仮に陰謀論のような見方を取っても、あまり前向きな解決は得られないし、結果的にむやみな労働強化につながる可能性もある。それに何よりも他人の陰謀に原因を見ようとすると、構造的な問題が見失われてしまうのです。したがって、僕は、陰謀論的な見方ではなく、芸術とボランティアという労働力とが結びついていることの形態的な側面から考えたいと思います。

もう一度、確認しておけば、芸術商品と労働力商品は共に「労働価値説=価値実体論」がフィクションとして成立しません。つまり、お互い価値が保証されていない状態にある。芸術の価値を保証していた芸術史や美学といった象徴体系の力が弱まり、芸術商品は市場において投機的なものになっている。労働力もそうです。高等教育が労働力の価値を保証するわけではないし、労働市場は投機的ですよね。ボランティアという存在自体も、別の見方をすれば、失業者層ないしは失業者予備軍です(まあ僕は完全に失業者ですが)。

その中で、芸術とボランティアという労働力は、それぞれ自己の価値をお互い相手に投影しあって価値の保証の幻想を維持しているのではないか。つまり、芸術にとっては、ボランティアという、芸術作品のためにわざわざ無償で労働してくれる人々の存在が、そのままその芸術作品の高い価値を保証するものです。そして、ボランティアの側から見れば、高い価値のある芸術作品に対して労働し貢献すること自体が、自分たちの労働の高い価値を保証するものです(つまり失業の現実を忘却させてくれる)。かつて芸術と労働力の価値を保証していた象徴体系の残滓の下に、こうした相互的な鏡像関係が成立しているのではないか。

まあそういう鏡像関係に対して、客観性がない関係と非難することもできるわけですね(確かにあまりに閉鎖的です)。そういうわけで芸術の価値を客観化/実体化させるために、芸術の価値を保証していた象徴体系を復活させようという反動的な立場が出てきます。今回の村上隆はつまりそのような反動の一つなのではないか。

しかし、糸圭さんのジャンク論の面白さは、そういった幻想的な立場も反動的な立場を取らずに、(ジャンクな)芸術の実体を見出していくことにあります。糸圭さんは「労働価値説=価値実体論」を等価交換の嘘を隠蔽するためのリベラルイデオロギーとして廃棄しながら、後で労働という行為の実体性そのものを取り返します。

芸術という労働は、価値が決定不可能であるがゆえに「ジャンク=無」でありながら、同時に「ジャンク=モノ」であるがゆえに欲望の対象、フェティシズムの対象として機能していると糸圭さんは言います。つまり、芸術に価値がないという形で芸術批判をして、人々の芸術に対する欲望に根拠が無いと言ったところで、それは単に欲望の問題を看過しているだけなのではないか。もっとフェティシズムや欲望の問題に向かい合うべきではないかということです。(実際、資本主義における等価交換への欲望が非難されるべきだとしても、だからといって全ての欲望が失われてしまったら、人間は生存できないわけですよね。だからこそ欲望の形態について考えるべきだということだと思われます。)

糸圭さん自身の言葉を引用すれば「芸術もまた『無』であると同時に『モノ』であるのではないか。芸術家とは『モノ』を作る無為の行為ではないのか。芸術批判と芸術とは、常に二重に並行してなされなければならないのです。」となります。この「無為の行為」という言葉の中には、人間の存在を、労働行為、言い換えれば自然を変化させて自分の目的に役立てるという欲望の行為に見出したマルクスの思想が反映されているように思われます。このマルクスの「人間」というのは、ヘーゲルの「人間」とは同じではないと思うのですがね。そこはまだよく分かりません。

まあ、糸圭さんのいいところは、決してつまらない人間主義にはならないし、「『モノ』を作る無為の行為」としての芸術という考えも決して美化されないことだと思うんですね。つまり、繰り返しになるけど、芸術と芸術批判が常に並立しているのがいいところなのでしょう。

しかし芸術の価値とは話の尽きない問題ですね。』(2006/05/11 17:27)
kairiw 『恣意性原理とはむろんソシュールに由来する考え方だけど、しかしすべての社会文化的な要素は、恣意的で、「なんら必然性」のないものだとする、丸山圭三郎をはじめ日本でもむかしそういうひとがいたけど、それに対しては、エミール・バンヴェニストの批判を僕は支持する(論文名はたしか「言語記号の性質」で、「一般言語学の諸問題」に入っていたと思う)。つまり、たとえどれだけ構造的あるいはシステム的に、各要素(ここでは言語記号)が恣意的に見えたとしても、その意味と記号との関係づけは社会的文化的コンテクスト内部においては、ある一定程度の「必然性」を持っている。まあ「理由」といってもいいのだけど。で、丸山なんかは恣意性原理をもってバンヴェニストを批判していたのだけど、なんの批判にもなっていなかった。まただのソシュール学者の話はどうでもいいんだが。
 それで、このバンヴェニストのいう必然性という論点は、それをかりに「社会的文化的必然性」というふうに軸を変えてみると、これは社会学歴史学における理論領域の話である。
 ぼくはもうアカデミズムに関わってはいないので、つまり素人としてしかこのへんはいえないけれど、というか、きちんと読んでいないんだけど、こうした問題は、ルーマンのゼマンティクス=意味論などを勉強しないとだめだなと思ってます。しかしまあ、もう読む労力と時間がない…。』(2006/05/11 22:22)
kairiw 『あと文化的ヘゲモニー論でも否定神学的論法でもいいんだけど、文化を語るときに、その政治的な機能に着目するのはいいのだが、その政治性を糾弾する主体の認識論的な立場の政治性の問題がみすごされがちではないかと思う。つまりフィードバックでもいいのだけどさ。つまり君もなんらかのメタ価値にコミットしているわけですから。
 いいかたを変えると、文化左翼的な芸術否定論をやっても、なんら理論的な生産性がないように思う。それは、いわば俗流社会学的なというか伝来のマルクス主義的な説明のヴァリエーションにすぎない観察結果しかだせないのではないかと思う。
 つまり、問題は、本来恣意的で無価値(しかしやはり「無価値」ではないね。ある価値のシステムのなかでの位置価をもっているわけだから。)であるはずの「芸術」なりなんなりをなぜひとはあるいは社会は求めるのかと問うべきで、そうでないと対象を客観的に、ウェーバーのいう価値自由的に、分析することができない。あるいは説明がどうしても制度分析のレベルでとどまってしまうのではないだろうか。
 政治主義的な文化分析あるいは政治的変数に還元する解釈よりも、意味論的な作品論なり芸術の機能分析の方が好ましいということです。
 これは前やりとりしたことの反復でもあるんだけど、芸術否定論を述べることで君はなにをしたいのかなということなんです。ボランティア体験をどうにか昇華したいというのは分かるのだけどw、しかしやっぱ話題が小さすぎないかねw?
 村上隆問題でいえば、あれを持ち上げる椹木さんとかを批判するなり、「スーパーフラット」に内属する問題を語るのか、演劇内問題で語りたいのか、いや双方を語りたいのだろうけど、問いそのものが見えないのです。芸術を否定するなら、徹底して否定するがいいと思う。むろんそれを論証的かつ分析的かつ実証的に。
 あるいは、と終わらないのだけど、芸術を否定するのか、芸術を肯定するのか、芸術批判をおりこんだメタ芸術でないとだめといいたいのか、しかし今日、メタ芸術でない芸術がどこまであるのか、…やはりぼくとしては、君の問題化は、芸術ないし舞台ローカルの問題としては、立ってないと思うのです。
 いやそれについてはすでに君自身が答えているけれどもね。

まあこのへんはカルスタでも文化左翼でも「左翼的」な文化分析全般の傾向の問題であるし、むろんぼくのいっていることは宮台さんの受け売りの部分もありますw
 政治・文化・表象・芸術、これらの込み入り方はお互いいうように大変なので、現時点ではという保留を加えたうえで、上記しました。』(2006/05/12 00:00)
kairiw 『あと「政治」ということでいうと、一般社会や国家などと関連する意味での「政治」と、芸術というある特定の文化領域内でのいわばモードレベルでの「政治」と、また芸術という領域が一般社会において果たすいわば「社会的な」レベルでの「政治性」など、いくつもディメンジョンがある。分かっているのだろうけれど、それなら、なぜそうした次元の差異を理解しながらも、あいかわらず芸術否定論=芸術などはファンタジーにすぎないという、ひとむかし前の認識を持ち出してくるのだろう。
 ファンタジーなしにひとは生きていけない、それゆえ、そのファンタジーをどのように改変あるいは構築すればいいのかという問いに、なぜ移行しないのか、それが分からないのです。
 村上隆グラムシを持ち出しても笑われるだけでしょう?敵はもっと手ごわいとw
 あ前もっていうと、いまこそグラムシ!というのは分かってますよ。でもまあ、君限定でw』(2006/05/12 00:13)
kairiw 『>村上隆グラムシ

「に」です。』(2006/05/12 00:15)
ZnDon 『>本来恣意的で無価値(しかしやはり「無価値」ではないね。ある価値のシステムのなかでの位置価をもっているわけだから。)であるはずの「芸術」なりなんなりをなぜひとはあるいは社会は求めるのかと問うべきで、

うん、そうね。まあ伝わらなかったということだろうけど、糸圭さんも、芸術批判だけでなく、なぜ人々や社会は芸術を求めるのかを問うべきだと言ってるんだと思うよ。で、僕が糸圭さんの話を出したのも、単なる芸術否定論はつまらんなーとか俺はやりたくないなーとか思ってたことが理由だし。だから、

>ファンタジーなしにひとは生きていけない、それゆえ、そのファンタジーをどのように改変あるいは構築すればいいのかという問いに、なぜ移行しないのか、それが分からないのです。

僕もその方向のことやれたらやりたいんだけどねw まあ今その準備をしている段階で、それで単なる芸術否定論ではない糸圭さんのジャンク芸術論を確認したんですけどね。鴻氏の話を出したのも、それが理由でさ。劇評誌クアトロガトスでは、「嘘の希望」とか言われて、自分でも認めてたみたいだけど、「嘘の希望」っていうファンタジー作戦もなかなか効果的ですね。僕も早く「嘘の希望」が言えるくらい立派な人になりたいですw いや本気で。

あとボランティア体験ねー、あんまり昇華するつもりもないですね。まあ僕は何だかんだ言って、そんなにボランティア体験してないですし。あと嫌なことは忘れるんですw でも規模の小さい話ですかね?雇用問題は大きい話だと思いますよ。演劇だけの話ではないですし。無報酬まで行かなくても低賃金でバイトしながら制作やってる人も多いし。某パブリックシアターでは、低賃金でも生活できる裕福な家庭の子女しか雇用しないとトップの人が公言しているらしいですし(機会格差!)。なんでそこまでして芸術するのかなと自分のことを含めて疑問に思う反面、何かそこには理由があるのだと思う。一概にやめればいいのにみたいなことを言って、看過できることでもないと思うんですよね。

>恣意性原理

まあそうですね。丸山圭三郎はともかくとして、ソシュールの恣意性を批判するというのは昔からよくありますよね。ランボーの母音の詩だってそういう風に使われるし。プルーストの小説の地名の問題とかね。あとはもっと前ではプラトンの『クラテュロス』もそういう話ですよね。ディドロの『聾唖者書簡』とか。で、元々糸圭さんの重要な点も、恣意性原理に基づいた価値形態論だけでなく、労働価値説=価値実体論を捨ててないということだと思っているんです。芸術の価値の話になった時にすぐに糸圭さんの名前を出した理由が、価値実体論のことを思い出したからですから。ただしどんな種類でも実体論というのはオカルトに行きやすい(もちろん糸圭さんはそっちには行ってない)というところがあるので注意しなくてはならないと思いますけどね。あと恣意性原理も確かに何かを分析する時には抽象化の手段として便利ではあるんですよ。

>いまこそグラムシ

これだけは分かりませんw しかもなぜに俺限定なんすか?w』(2006/05/12 01:53)
kairiw 『>>いまこそグラムシ!>これだけは分かりませんw 

いや、だから、いまこそグラムシ!なんですw
君限定だったのは、君が分かってないからかもと思ったからです。そしたら、案の定、分かってなかったw いまこそグラムシ!だよw!』(2006/05/12 17:14)
ZnDon 『いきなり、グラムシって言われただけじゃ分かんないっすよ!w まあまだ色々落ち着かないんですけど、近いうちに飲みましょうw』(2006/05/12 22:36)