測量、アイロニー、ドラマ

昨日は、武内さんの舞踏。久しぶりにテレプシコール。
hさん、tさん、g先生。こういう踊りも、かなり久しぶりに見れた。
測量。蹄型というかコンパスで測量された半弧状の装置とじっくり関係をとっていく。その手腕は、やはり「舞踏」においてしか見ることのできない種類のものである。「まさぐる」感じとでもいおうか。
 大野先生との距離のとりかたも、むろん私とは異なるが、いろいろ感慨深い。
たしかその前の日はティム・バートンの「猿の惑星」。
趣味判断でいくと、「バットマン」の方がいいが、ドラマトゥルギーやつくりの点では、相当いけていると思う。
エイプの将軍役のティム・ロスがすごい。
ダークで、ゴシックなところも、やはりいい。
モンゴルのノマドのような陣営テント(というのか?)のや鎧や兜=ヘルメットのデザインに萌え。
ラストのアイロニーによって、もののみごとに、アメリカへのアレゴリカルなあてこすりとなっていて、リメイクとしてもすばらしい。こういう健全なアイロニーは、たとえばスピルバーグの「ミュンヘン」に欠けているものだ。ここ数日、「ミュンヘン」のあのクライマックス?の回想シーンについていろいろ投げかけた。「種の保存」本能の瞬間だろうという説になるほどと思いながらも、あれはどうにも「マリアの恋人」を意識しすぎたのではないかと思う。むろん、あのシーンを除けば、やはり映像はとても素敵なのであるが。…

ここ数日、時系列が把握できない。aさんと偶々駅であったり。

昨日は「ナポレオン・ダイナマイト」(邦題「バス男」)。これまた傑作。だるーく、しょーもねー感じが、少年期に体験された空気や社会や関係を思い起こさせる。記号としての「だささ」はしかし世代を選ぶのだろう。いや私らは完璧にヒットだったけれども。しかし俳優たちが町のひとだという。ということは素人なわけだが、しかしどう見ても、うまい。こうなると、たしかに、専門職としての俳優であるとか演技などというものは、不要どころか、そもそも、ないのだと考えたくなる。kmくんがそういえばいっていたが、古代ギリシアでの俳優というのは、くじびきで、つまりは一般市民だったわけだ。これはお神楽などでもいえることだ。ま、古代はともかく、「ナポレオン・ダイナマイト」が提示するパフォーマンスは、近代演劇?における制度としての「俳優/演技」を根底から無化するものなのかもしれないw
 素人の起用にこだわったのは、パゾリーニストローブ=ユイレやたしかロッセリーニもそうだった。

今日はヴィオロンでmmst「polyphonic」。終演後、mくんに感想を求められ、いろいろ話してくなか、あらためて気付いたことがあった。とりわけ、意味性、抽象化といった問題。ダンスとドラマ性など。
…しかしタンツテアターはともかく、ドラマトゥルギーを排除したいわば純粋運動(イメージ)としてのダンス作品においても、しかし構成やコンセプトにおいてのドラマトゥルギーはあるわけで。また、運動や振りのシーケンス(連続)においても、その組み合わせにおいて、いわば「ドラマ的なるもの」は発生する。しかしこれらは、「ドラマ」の定義次第である。
 さっきまで飲み。