パウロ、パゾリーニ

最近、エントリーを書けなかった理由のひとつが、読書である。とりわけ二冊の本が、非常に強かったので、なんとかしようと(なにをなんとかするのか?)していたのだが、結局、三週間くらい、いやもっと過ぎてしまっていた。一冊は、フランスの哲学者のアラン・バディウの「聖パウロ」である。中身は非常に難解なので、それについてエントリーを書こうとしても、またノート作りながらの再読となるし、それはもう、パウロ学あるいは聖書学の領域に関わるものなので、どうしようかなと思いながら、さりとて読了しますた。で気を済ませるのもなんとなくもったいない(なにが「もったいない」のか?)感じがして、しばらく読後のインパクトに浸っていても、埒もあかず、そのうち、読んだという体験的な事実のみが残るだけ、みたいなのもいやだなあと思っていた。それで、結局、いまも大してなにがあるわけでもない。
 バディウのこの本が扱っている題材はかなりエグく、つまり本質をえぐっていくような感じがする。まあ、ジャン=リュック・ナンシーや晩年のデリダらも、その神学的なテクストはどうにも同様に感じられる。三者とも、ニーチェについて言及している。バディウは、ニーチェパウロに対する理解の甘さを批判していた。といっても、ニーチェパウロは近いところにある、そのことをニーチェは理解していなかった、みたいな感じの、肯定的な批判であるが。
 以前にも書いたことだと思うが、流れで書くと、パゾリーニパウロについての映画を準備していたということがあって、この本でも、その内容紹介と検討が行われている。
 今秋にイタリアに公演で行くことになり、パゾリーニが生まれたボローニャでも踊ることになり、また内容はなんでもいいらしいので、やっぱりなんとなくからめたいと思っており、それと平行して、その後でインドネシアでの「油田III」公演も控えており、こっちの方はもちろん地震からの復興しだいなのだが、現時点ではまだキャンセルではないので、作りこまないとならず、その場合は、パゾリーニから養分を得ながら作ってきた「油田」シリーズなので、やはりパゾリーニを外せない。
 海外からのオファーはもちろんうれしいのだが、それがよりによって、ボローニャだとは、これはパゾリーニに呼ばれているような気もする。
 ということで、バディウの「聖パウロ」を、参考図書として読む次第になったのだった。

大阪にこの前客演でいったとき、日本橋の中古屋でパゾリーニの「愛の集会」を入手したまま未見だったのだが、それもこの間、見た。編集技術が異常に、すごいと思う。基本的には、イタリアの人々に、性にまつわるインタビューをしていくという、ただそれだけなのだが、冒頭の路上のこどもたちへのインタビューだけで、もう、感動してしまった。やられた感じというのは、くやしいのだが、しかたない。パゾリーニの、倫理としてのあくなき探究心と、したがって「事実」ないし「真実」への想い、その「人間」への関心と関与の強さが胸を打つ。
 同性愛者および少年をたぶらかしたということでパゾリーニを追放し弾圧した、公式のキリスト主義者(「キリスト者」という訳語よりもこちらの方が原義を伝えるはずだ、とたしかバディウの訳者の方が書いておられた。)や、公式のマルクス主義者との闘争の根拠となったのが、より「世界の悲惨」に、より「真実」としての「現実」に、近づくことであり、同時に、神的なるものにも近づくことだった、と私は考える。ただ、これは排斥後の軌跡であって、やはり発端となったのは、自身の性愛と欲望の問題であったわけだが。この性愛と欲望の問題は、あとで述べるフィリップ・ロスにおいても、同様に、ほとんど最重要ともいえるほどの場所を占めている。
 ところで、私が不思議だと思うのは、パゾリーニのテキストに、ニーチェへの言及があまりないように感じられることだ。むろん、翻訳がほとんどまったくされておらず、また、以前は出ていた文庫の「アッカトーネ」「テオレマ」「あることの夢」などもどうやら絶版状態で、告知されていた「パゾリーニ詩集」を出す前に小沢書店はなくなるし(このことはもう何回嘆いたことか)、「海賊評論集」もまた告知のみという、まずパゾリーニの文章が日本語で読めないという状態にあるものだから、それで判断することもないのだが。ニーチェパゾリーニとは、一見非常に近いようでもあるし、当然パゾリーニは読んでもいるのだろうが、どうなのだろうか。ただ、パゾリーニにとっては、ランボードストエフスキーとの出会いの方が強いということもあるかもしれない。また、ナチスドイツによるニーチェの利用ということで、生理的に受け付けないということもあるかもしれない。実際、私の知人にもそういうひとがいるし。
 nさん推薦の「大きな鳥と小さな鳥」もすばらしい、「カンタベリー物語」は、不思議だが、パゾリーニらしい。ラストあたりのボッシュ的なシーンは、「仮面ライダー」のようだった。というか、「仮面ライダー」の怪獣のモデリングに、相当影響を与えていると思われる。
  だらだらとした随想はこのへんで止めるとして、パウロパゾリーニについてはこれからも勉強しよう。