ロスでなくファウルズ、叙情主義?と、大いなる肯定?

さて、もう一冊は、フィリップ・ロスの「ヒューマン・ステイン」である。この本を読む前に、ジョン・ファウルズの「魔術師」を読み直していたのだが、語りの技法は大変うまく、読みやすいのだが、どうにも小道具の出し方が、ステレオタイプで、しかもアイロニーあるいはヒューモアによる距離化もほどこされておらず、つまりいくらベタもありだといえ、「ホロコーストコメディ」つまり、「ホロコースト以後のコメディ」と比べると、いや比べるまでもなく、その叙情性がどうにも古臭い。パウンドをモデルにしているようなコンヒスも、語りは魅力あるのだが、どうにも現実のパウンドがちらついてしまい、結局、中断。よく分からないが、このシリアスな叙情性は、スウィンバーンとかの詩とかってこういう感じなのだろうか?パウンドやT・S・エリオットらの悪口による先入観であるが。
 スターンも、スウィフトも、ジョイスも、ウッドハウスも、英語圏にはいるわけで、「モンティパイソン」もあるわけだが、その他方で、ヒッチコックは「ヒューモアを理解しないイギリス人」といっていた。同じ台詞をパゾリーニもいっていた。まあ、島国精神ということで、日本も同じだが。いや、お笑いはすばらしいのだが、どうにもマスコミなどのエセリゴリズム・モラリズムや、シリアスの叙情主義を好むというところもなんとなく、対応している気がする。
 たとえば、村上春樹もそのきらいがある。どうにもあの叙情主義と抑制された美学が私は苦手で、いつもそこそこしか楽しめない。佐世保の先輩であるw村上龍もそうだ。ハードコア・ハードボイルドな様式主義とでもいえばよいのか。まあ村上龍は、存在が滑稽であるからいいか。
 この叙情主義批判という観点からは、大西巨人梅崎春生、あるいは、江戸の粋を継承した幸田露伴の洒脱さや、夏目漱石が引き立って来る。あとはパゾリーニに匹敵する天才・楳図かずおや同じく天才・漫☆画太郎とか。
 この論点は、きちんと固めたいところである。しかしまあ、悲劇的想像力を笑うといっても、それだからといって、喜劇の悲劇に対する優位ということではない。悲劇的なもの、あるは、重み、重力を抱え込まない笑いないし喜劇もまた、退屈でもあるからだ。
 あと、こうしたことは、そのように見なし、考える主体、すなわち「私」の精神状態にも依る。ただ、体験上、悲劇によるカタルシスは、救済とはならないと私は考える。圧力によってひとはつぶれるわけだが、そのような体験に類比する物語を見て、感動し、カタルシスを得たとしても、それは、それ自体としては、そうの圧力という暴力の追認になってしまう。笑いの想像力は、そこからなんとか逃げようとするし、それゆえ、それは生命に関わろうとするものだ。あるいはまた例の「大いなる肯定」というやつかもしれない。
 これらの問題は、理論哲学的には、ジル・ドゥルーズが分析しているところである。
 厄介な問題である。