「芸術」の未来

専門分化された「芸術」ではなく、ある社会関係のなかにおいての「芸術」の機能をあらためて構築し理解すること。そしてその目的のための方法論は多数あること。この論点に関しては、ぼくは最近、「プラグマティズム」に惹かれているながれで、ジョン・デューイの「経験としての芸術」を読んでいる。それと同時に、自分の活動の方向性=ディレクションも分解しながら模索している。たしかに「芸術」は「理論」に還元されることはないが、さりとてなんら反省し思考しようとすることのない「神話」なり「常識」なり「一般的な意見」なり「ドクサ」なり「ドグマ」なりに依存することよりは、よっぽど「理論」のほうがましである。それにいまこういいながら気付いたのだが、アルトーのヴィジョンにせよブレヒトのヴィジョンにせよフランシス・ベーコンのヴィジョンにせよ、あれらは「神話」などではない。それらはむしろ世界を新たに知覚するための理論であった。「専門分化された哲学者」の行うような理論では毛頭ない。レヴィ=ストロースがいみじくもいった「野生の思考」にそれらは近い。そうして「野生の思考」とは徹頭徹尾、実践なのであり、プラグマティックなものである。
 それゆえ、芸術作家にせよ批評家にせよ、立場の違いなど本来ないと私は思う。安易な自己愛も安易な裁きもともに芸術にとっても批評にとっても社会にとっても無用である。