2006-07-25から1日間の記事一覧

スノビズム

ヤン・ファーブルのあの上演の価値は、このようにもろもろの留保をつけたうえで、「よい」と思われる。あの上演を「古い」と評価すること自体がスノッブなのであり、あのような限りなくスノビズムの香りを漂わせるものですら、それが特異性を一定程度現実化…

「芸術」の未来

専門分化された「芸術」ではなく、ある社会関係のなかにおいての「芸術」の機能をあらためて構築し理解すること。そしてその目的のための方法論は多数あること。この論点に関しては、ぼくは最近、「プラグマティズム」に惹かれているながれで、ジョン・デュ…

欲望 

近代主義と土着主義・実感主義はいずれも「現実」への帰属をもとめる。しかしわたしたちは「世界」のなかにあるだけで、そこに「帰属」しはしない。 つまり、「居場所探し」は結局、経済的な利害に特化されるものにすぎず、そのことの保証によってえられる平…

「モダニズム」と「社会」

「歴史」や「伝統」を軽視する浅薄な「ポストモダン」と、「モダニズム」とは関係がない。また「シュルレアリズム」問題はこの派生問題である。また「遊離」した「近代」と、「リアリティ」=「実感」との対極関係については、そもそもその対極関係は問題と…

ステレオタイプとオーソドクシー

ステレオタイプとオーソドクシーとを峻別することもまたすこし難解ではあるが、リテラシーの学習と普及によって解決することができる。世界の多様性に対して開いていくこと。開くという志向性を保つこと。群れることによる「多数派」の形成はこれともっとも…

享楽(美)の享受

ファーブルのような「古典的」な作品を美的に享受することの問題性について。 そもそもスペクタクル批判という契機自体が、「芸術界」内部の、つまりは、なにが「美」であるのかをめぐる闘争のなかでのものである。「美」の享受行為をその形式的な社会政治性…

いわゆる批評における否定的一元論的傾向

たとえば「こども」という理念を「無垢」あるいは「純粋」と置き換えようとも、それは演出的すなわち方向性を示すカテゴリーである。そしてそれが多数派の美学となるに従い、当初持ち合わせていた批判的契機は失われる。圧倒的に悪しきものは、それへの無批判…

禁じられた芸術

またスペクタクル批判については、そもそもいわゆる「表象不可能性」の問題と地続きである。しかし、ナンシーが「禁じられた表象」(「イメージの奥底で」所収) で指摘しているように、表象化の不可能性の問題と不当性の問題を峻別する必要がある。この問題…

多様性・多数派の美学・偽善

多様な作業があるということでファーブル批判を反批判しようと私はしているが、それでは「悪しきスペクタクル」は多様性のひとつとして擁護されるべきか?いな。 「悪しきスペクタクル」とは圧倒的な多数派の美学であり、それを擁護することは優先性の観点か…

スペクタクル

あの上演が素朴なスペクタクルに終わっていたかどうか。それは「モダニズムのオーソドクシー」を優雅に(傲慢に)上演されたものだった。それはたしかにかなりいやみではあったかもしれないが、さりとて悪しきスペクタクルではなかった。「悪しきスペクタク…

ダンスを観察するということ:ヤン・ファーブルを巡って

以下、id:mmmmmmmmさんによる質問への応答。 どうもつっこみありがとう。できるかぎり、説明責任をはたしたいと思います。ただし、ファーブルの今回の作品を肯定的に評価するとなると、どうしても現在の日本のダンス批評言説の状況との鍔迫り合いをしなくて…