欲望 

近代主義と土着主義・実感主義はいずれも「現実」への帰属をもとめる。しかしわたしたちは「世界」のなかにあるだけで、そこに「帰属」しはしない。
つまり、「居場所探し」は結局、経済的な利害に特化されるものにすぎず、そのことの保証によってえられる平安と、世界の多数性あるいは偶発性に開かれることとは、似て非なるものである。「保守主義」と「前衛」との違いもここにある。またも「ドッグヴィル」を出せば、あの村人たちは自分の欲望を抑圧し、もっとも卑劣なかたちでその「昇華」を行った。それゆえ行われるべきは、ドグマやドクサに依存することではなく、欲望に向き合うことであり、欲望のデザインである。フィリップ・ロスの「ヒューマンステイン」でもそのことが問われている。ファーブルはある意味、完璧なかたちで、「欲望」に向き合っている。すくなくともdirectionにおいては。 そこに「善」を偽ることはない。
 欲望といいうことでいえばたとえばお金への欲望はどうか。お金への欲望とは生命の維持であり環境への適応の表現であるが、だがやはりそれはある「社会」のなかに限定されたものである。貨幣も必要であるが、雲や海と関係を持つこともまた必要である。