享楽(美)の享受

ファーブルのような「古典的」な作品を美的に享受することの問題性について。
 そもそもスペクタクル批判という契機自体が、「芸術界」内部の、つまりは、なにが「美」であるのかをめぐる闘争のなかでのものである。「美」の享受行為をその形式的な社会政治性において分析するさいには、また「対象化」そのものも分析されなくてはならない。
あるいはまた、享楽の享受を否定することもまた別の享受であるということ。否定的な享受もまたスノビズムにすぎないこと。どこにとどまればよいか。「正義」の享受はかなり危険である。だがことは案外シンプルで、それはたとえばイーストウッドの映画を愛することである。