いわゆる批評における否定的一元論的傾向

たとえば「こども」という理念を「無垢」あるいは「純粋」と置き換えようとも、それは演出的すなわち方向性を示すカテゴリーである。そしてそれが多数派の美学となるに従い、当初持ち合わせていた批判的契機は失われる。圧倒的に悪しきものは、それへの無批判な追随者である。この無批判な追随によってひとつの言説が強化され、支配的なものになるにつれ、ますます「市場」は硬化する。いずれにしても、その「演出」がどの「方向」に向かっているのか、だれにむかって発しているのかが問われなくてはならず、それは決して「日本人」ではない。むろん「西洋人」でも「アメリカ人」でもない。