ボローニャまで 9/1

朝、成田に着くと、Hさんがなかなか現れない。後に、トラックの交通事故による渋滞にバスが巻き込まれたことがわかる。結局、Hさんは飛行機に乗る事ができず、自腹を切ることになったという。しかしながら、バスはこうした不慮の事故による遅延には責任はないとしているようだ。保険もないのだろうか。いずれにせよ、すくなくも、こうした空港までの行程でバスを選ぶことは控えたほうがいいと考えざるをえない。
 成田からソウルを経由し、ローマのFIUMICINO:レオナルド・ダ・ヴィンチ空港に着く。空港から空港駅に至るまでの階段やエレヴェーター通路はひどく汚く、埃が雑草のように積もっている。ソウル空港にはわずかしかいなかったがあのきらびやかな香港空港にどこなく似ていて清潔だったのに対して、これは想定外wだった。いや、いざここまで汚いのを見たあとでは、たしかにこれがまたイタリア的なのだとも思え、実際そのことは後にローマに滞在することで確証される。まあ、掃除などということにほとんど興味関心がないのだろう。(とはいえ異常に清潔なボルゲーゼ公園や同美術館などもあるわけで、やっぱりなぜあそこまで華美な場所と汚い場所とのギャップがあるのだろうかとも思う。とはいえそれはどこの国でもいえることか。歌舞伎町と明治神宮は違うわけだ。)
ボローニャまでの列車は、テルミニ駅でなくティブルティーナ駅での乗り換えとのこと。列車に乗ると、アナウンスはやはりない。電工掲示板でも表示がない。外は暗く、駅にとまるごとに駅名を確認しようにも、よく見えない。結局、乗車前に見た路線図による記憶と、ガイドブックの地図をみながら想像するしかない。座席の頭を置く部分が奇妙で、片方だけがでっぱっていて、たしかにもたれることもできるのだが、不思議なデザインではある。向いの座席に座っているイタリア人サラリーマンらしき青年男性は、そのでっぱりの先端部分に頭をちょこんと置いている。そのことをIさんやMさんに伝えると笑っていた。
 ティブルティーナ駅は田舎の駅という風情で、どことなく騒がしいのだが、受付センターなどは閉まっており、しかもボローニャ駅行きの列車は表示がない。チケットに表記されてある出発時刻と同時刻の列車はモナコ行きである。モナコがどこにあるのか、確か南仏だったはずが、ボローニャを経由するのか、そしてどんな経由でモナコまで行くのか分からない。時刻表を見ると、同時刻出発列車の行き先はミュンヘンとある。なんじゃこりゃ。でもおそらくはこの列車でいいのだろうと観念し、夕食を食べに駅の外に出る。駅のそばにあるピザ屋でたしかピザと鶏肉の惣菜とコーラを食べる。周辺では男達がたむろっていて、とてもラガッツィ・ディ・ヴィータragazzi di vita(不良少年)な感じで、ローマのイメージ、というか「アッカトーネ」とか「生命ある若者(原題ragazzi di vita)」のまんまパゾリーニあるいは初期フェリーニのイメージ。
 プラットホームで待っていると、なにやらアナウンスがイタリア語で流れたあと、モナコ行きの表示がチャラチャラチャラと代わり、行き先が変わる。とするとみながわあと動き出したので、聞いてみると、ホームが変わったそうだ。黒人が聞いてくる。変わったそうですよと答えたあと、Iさんとなにやら話し込みだしている。先に行く。
 ようやく列車が来たが、待っていたところよりずれたところに停車したので、また移動。人々がアーと沸く。結局、乗るところは一番先の車両で、けっこう歩かされる。しかも、乗ってみると、席がなさげである。むかしの大垣行きの雰囲気である。実際、人々のなかには行商人も多くいたような感じがした。
 勝手が分からないが、もうなんだか疲れてどうでもいい感じになってきていたので、目の前の電気が消え、カーテンが閉まっているコンパートメントに半ば強引に入り込むと、若いサラリーマンがひとりでいる。感じがいいひとだったが、こちらは休息モードにすぐに入る。彼はほとんど聞こえないくらいの声で携帯で話している。よくそんな声量で相手が分かるなと思えるほど。列車に乗るまでは大変だったが、あとは夜行列車でしかも電気を消しておくことができたので、快適とまではいえないまでも、落ち着く。しかしかなり長い。ようやくフィレンツェ駅に着く。夜でよく見えないのが残念。夜中の1時すぎか2時くらいにボローニャに着く。今度は出口がどこか分からない。ようやくアデレと会う。東京のイタリア料理屋で飲んだモレッティビールの缶ビールがあったので、買う。そういえば、夏にビールを禁止していたが、もう夏は終わったので解禁なのであった。
 部屋はとてもいい感じのアパートで、風呂に入って寝る。