帝国主義のエートスと資本主義の>>精神<<

 ユーロのイタリアの物価は日本よりも高く、これはリラの時から変化するまでいろいろ大変だったろうなと想像する。でも、それでもこの時間習慣は意地でも守っている。
 これは人類学的に考えればw全く正当で、また普遍的でもあるし、またおそらくは生理学的に見ても、健康に良さそうである。大体、ニッポン社会に代表される卑屈なルサンチマンの裏返しのハイパー資本主義などこそが病理なのであり、そうした例えばイタリアのひとびとの歴史的な習慣の強度あるいは安定性と比べてみても、資本主義者がそう望んでいるようには資本主義が安定していないことなどは、コモンセンスさえあれば認識できる。ま、勝手にしやがれの一言なんだが。
 それはともかくとしても、だからといってイタリアが資本主義社会ではないわけでは毛頭ない。資本主義の特性についてはマルクスの一般理論はともかくとしても、どうにもマックス・ヴェーバーの歴史的な理論の印象が、私などには強くある。つまり近代資本主義の「精神」を構成したもののひとつが、日々勤勉たるべしというプロテスタンティズムエートスであったうんぬんという話である。そしてその説は全く正しいとは思うのだけれど、今回、イタリアを体験し、また帰国してからローマ史関連の本をぱらぱらめくっていると、どうにもドイツ的なプロテスタンティズムエートスとまったく異なるロマンス=カトリック社会のエートスにも、「資本主義の精神」は、別の形ではあるが、案外あるような気もしている。というか、それは強奪、収奪という契機のことであり、それをあえて名指すのなら、帝国主義エートスとでもいうべきものである。
 つまり、奪いまくっているわけだ。だれもが。「宝」を。ローマの彫刻であれ絵画であれ詩であれ。たとえばフィレンツェはダンテを追放し、ダンテはラヴェンナで没した。そうしておいて、フィレンツェはダンテに帰ってきてほしいらしく、あの墓のランプの火をいつまでも奉献しているという。ま、これはフィレンツェがダンテに謝っている格好だから別にいいのだが、あとは、ローマのカンポデフィオリでのブルーノの扱いである。自分達が殺害しておいて、いまは偉大な哲学者として銅像を造り奉っている。つまり私がいいたいことをもっと簡単な例で示すとなれば、たとえばパゾリーニはオスティアで陰謀によって殺害されたわけだが、そのオスティアにパゾリーニのブロンズ像が立ってもおかしくはないということだ。実際、マッシモやマテオやルカの話によれば、イタリアの若い世代はパゾリーニを社会を変えたひととして認識しているという。古い世代というか保守層にとっては、パゾリーニはただのうるさい変態だったようだが、それはもちろん自分達の権益を批判され、脅かすからであるが、世代が交替すると評価は逆転する。パゾリーニはローマのフェルトネッリ書店のキャッシャーの背後で、三人の写真のうちのひとつとしてみごとに飾られていた。いずれパゾリーニの名前を冠した通りや広場や銅像が出来ても全然おかしくはなさそうである。いやこれは皮肉ではないのだが。
 つまり帝国主義エートスは、まったくもって開き直りの精神であり、ドラえもんでのジャイアンの精神である。所有欲、支配欲のストレートな表出。
 プロテスタンティズムはある意味でそうした古代的な資本主義を、ひねることで近代化したといえるのかもしれないが、むろん今日の資本主義の本質は帝国主義である。
 というか、資本主義者が自分では分かってないことが多いのだが、「資本主義」というのはたんなる経済体制における形式のことを指しているわけではない。資本主義とはある考え方つまり思考形式のひとつであり、それは一見、政治より独立した経済専門の領域における名称のように思われていることもあるようだが、それは経済や政治をも貫くある観点である。あるいは支配関係における力のことである。
 しかしこの話題はボローニャというよりかローマに関する話題である。