「芸術それ自体」あるいは物神について

いろいろプラグラムを組む。というか、自分の問題意識をまとめはじめる。
政治社会論は、一市民としてこれからもやっていかないといけない。
で、問題は芸術論。
芸術と政治との問題構成についてはしばし悪循環に陥るけれど、つまり政治を論じるのなら、芸術を論ずる必要がないとかいう話になるのだけれど、あらためて問題の項目を書き出してみると、やはり相当緻密なところまで問題は入り組んでいる。
 つまり政治を論じるにあたっても、芸術は格好の領域であるのだ。
芸術を政治と無関係とする19世紀的(?)あるいは俗流ロマン主義的な神話を信じているひとがホウボウにいて困るのだが、しかしそうした芸術イデオロギーが事実的に存在しているということは、むろんあまりに政治的な事実なのである。
 そして自分にも欺瞞があることが分かった。
この系の話題になると私は自分としては芸術などに興味はないと発言することもあった。
 そしてそのように自己規定することには、ある経験的な理由があるのだが(ある時期は芸術などこの世にまったく不要であると本気で考えていた。)、その体験的な記憶で私はそう発言していた。
 あらためて、政治と芸術との関係における問題を整理すると、やはり面白いのである。
結局、私は芸術に興味があるのだということを再認する。なにをいまさら、とひとはいうだろうが。
 しかしむろん、ここでいう芸術とは広義におけるもの、すなわち社会関係のなかにおける芸術の機能ということであり、「芸術それ自体」ではない。
 そう、かの「芸術イデオロギ−」において想定されている「芸術」とはまさにこの「芸術それ自体」のことであり、それがはたして「それ自体」として何であるのかは、貨幣のように不明なものである。
 それはフェテッシュ、物神である。物神崇拝。
人間社会のなかにあってこその芸術であるのに、その社会のなかでの埋め込みということが少なくとも一般的には忘れられがちであるということ。
 そしてやっぱりそこには欲望が介在していること、どころか、ある欲望のシステムがまさにそれらを生産しているということ。

それゆえ、問題はこの人間社会における欲望の問題である。
以前もここまではきたのだが、今回は腑に落ちた。


大澤真幸の「戦後の思想空間」を再読。
戦争のもたらす抑圧と排除とが、表現不可能性(表象不可能性)という事態をもたらすこと。
 この議論に欲望の問題および快楽の問題を重ね合わせること。

だからやっぱりアイデンティティの問題であり、「自己」の問題であるわけだった。