DIFFERENCE-DANCE:2006年秋イタリアツアー報告

要望がありましたので、先日イタリア文化会館で発表した文を掲載します。
なお、内容については、いくつかの点については、現在、考えを変更しておりますので、その旨ご了承ください。

「DIFFERENCE-DANCE:2006年秋イタリアツアー報告」          2006,10/23   脇川海里
まず主催者より与えられた三つの論点すなわち1)振付家より見た都市空間での上演の限界と潜在性、2)文化交流は作品にいかに作用するのか、3)今回のツアーは作品の振付にいかに作用したか、については、それぞれに一般的に応答するよりは、ツアー経験報告のなかで応答した方がいい。しかしまたツアー経験を個別に語るには時間が足りないので、ここでは上演経験を踏まえて問題を展望することにとどめておく。
◯上演の概要
今回私がイタリアで上演したダンス「SOGNO DI UNA COZA あることの夢」は、2005年に上演されたイマージュオペラ>>コントラ-アタック<<「油田」および「油田II」などのパゾリーニシリーズのソロヴァージョンである。ちなみにこのシリーズは、来年韓国で上演予定のソロダンス「YOU TAUGHT ME LANGUAGE AND PROFIT ON'T IS I KNOW HOW TO CURSE」に引き継がれる。
◯場所性について
 ほとんど劇場外での屋外で今回のツアーでの上演は行われた。カリアリでは劇場も選択できたのだが、「場所性」との関係を優先するという私の演出より、屋外を選んだ。 例外はペザロで、劇場と準劇場といっていいギャラリーであった。
 「場所性」とは、その場所が固有に持つ特性のことであるが、それには形状やその場所の持つ雰囲気や周囲の空気や大気や気候、また歴史的な背景、その場所がその街に住みひとにとって持つ意味や価値などが含まれる。 屋外の空間がその固有の「場所性」を持つのに対して、劇場はいわば中立的なものである。
 私は今回、踊るにあたって、できるだけその場所性と共に関係をつくっていきたいと思った。ツアー中にはこうした私の選択が周囲に理解されずいろいろ折衝もあったのだったが、結果としては私は自分の選択が間違っていたとは思っていない。これは上演あるいはダンスの成功や失敗といったことは、直接には関係のない次元のことでもあるからかもしれない。 それはいえば「出会い」なのであり、ダンスを通じて出会えるひともいれば出会えないひともいる。この不確定性を現在私は、あらかじめ確定化することで減らすよりも、むしろそれを受容したいと考えている。 
◯上演形式について
 この一連のパゾリーニに触発された作業にとって非常に特別な意味のあるボローニャおよびイタリアという「場所=空間」との関わりを優先したいという考えから、上演の形式としては開放形式をとった。
 開放形式というのは、ダンスを、事前にある「作品」という枠のなかに固定することよりも、むしろそのダンスが行われるその場所とそこに居合わせるひとびととの関係におけるさまざまな微細な次元のものも含めた「力」の流れのただなかに置くことを優先させる形式のことである。
 それはまた、理念的な意味での「インプロヴィゼーション」ともいっていい。「インプロヴィゼーション」は、音楽においてもまたダンスの歴史においても重要な技法ないし基礎的な作業であるが、今日、それはいまだ正当に認識されていない。たとえばインプロヴィゼーションが「作品」ではないとして下位に置かれ、それゆえ価値のないものとされることがしばしばある。しかしながら「作品」とはある一連の「作業」のことであり、それを切り取ったものである。それゆえ、このようなインプロビゼーションと「作品」との分割はたんに制度的な神話によるものである。このような分割は、「芸術」という社会的行為が、マックス・ヴェーバーのいう「合理化」を経て、いいかえると「近代化」されるに従い、固定化されてきたものである。
 私の考えるインプロヴィゼーションとは、その語の原義にあるように、予見不可能性つまりあらかじめ「見る」ことができないという事態に対して、その事態をそれ自体として受け入れる態度ないしは方法論のことである。
 その含意は、なんらかの「構成」なり「作品化」といういわば決定論的な処理をほどこすことで、「世界」そのものやその差異を飼いならすような「箱庭」としての「芸術作品」の在り方に私は疑問を持つからである。ちなみに「作品性」とは、芸術産業の市場における「商品性」のことともいえる。そのような「芸術」なるものの経済学的な側面に対して、私は経済行為であるがゆえに否定したいのでない。だが「芸術」と呼ばれるものが、そうした経済的な側面を隠蔽し、「美」という超越的な理念にのみ関わる、と想定されている仕方に対して、私は欺瞞を感じるし、実際この問題は、芸術アカデミズムなどにおいては、制度の本質的な構造問題として存在し、その弊害たるや、悲惨である。「芸術」はいまだ制度として閉域をつくりつづけている。
 インプロヴィゼーションといういわば基礎論的な形式は、ダンスを裸にすることで、こうした制度的閉域に抵抗するものである。とはいえ、私はインプロヴィゼーションのみが唯一絶対の上演形式であるとは毛頭考えていない。インプロヴィゼーションという技法の持つ限界あるいは「弱さ」やリスクについては把握している。だが、そうした形式的な限界が、その潜在性を打ち消すことにはならない。

◯ダンスのヴィジョンについて
 このような開放形式を採用した理由のひとつとして場所性ということを挙げたが、他に大きな理由となる考え方としては、「芸術」の行う作業をもっと原型にまで下ろしたい、というものがある。
「芸術」は高い専門的な技術に基づく高尚な文化として社会的には通用しているけれども、しかしそれはある歴史的な展開のなかのことでの話しであり、「芸術」の原型、あるいは「芸術」が「芸術」になる前の作業、あるいは創造行為のただなかにおいては、それはまずは世界を知覚するひとつの仕方なのである。ついで、それを他者と経験的に共有していく点でコミュニケーションのひとつの形式=メディアであるとも考えられる。
 「ダンス」は「芸術作品」である以前に、ダンスである。「ダンスそれ自体」といっていいのかもしれない。ダンスを「芸術」というフレームに収める前に、私はダンスを、世界に関係する差異の運動、とわたしは一般的に定義できると考えている。 あらかじめ閉域を作ることで差異を同一性に回収することではなく、「世界」の偶発性contingencyや多様性、複雑性、あるいは「世界」の差異に対して、身体と場所そして「自己」を開いていくことを私は志向している。 こうした作業が、ダンスの使命であると私は考える。

◯モチーフについて
 ピエル・パオロ・パゾリーニの仕事をこのシリーズでは参照しているが、私はそれを現代の資本主義社会批判としてくくった。それは当然、わたしたちが生きている今日の社会がいかなるものであるのか、どうような歴史や来歴のもとに今日のような姿になったのか、われわれとは何者なのか、いかなる存在なのかという一般的な問いを探求することになる。
 「現在性」=モダニティを問うという点においては、私は批判的モダニズムの立場にあり、「近代」が終わったとするいわゆる「ポストモダン」というカテゴリーに対しては、「近代」は終わっていないどころか、いまもなお続いていると批判したい。現在のグローバリゼーションは、帝国主義が再編成されているものにすぎないし、植民地主義も再編成されながら続いている。とりわけ「近代社会」は、植民地交易および奴隷制によって形成されてきた。
 パゾリーニの仕事より採用された重要なモチーフに「アフリカ」というモチーフがあるが、「アフリカ」と「近代社会」との関係はしばしば忘却されたりあるいは隠蔽されたりネグレクトされている。たとえば1685年マルティニャック島に住んでいたカリブ人絶滅、1947年フランス政府によるマダガスカル人9万人虐殺などの出来事を指示しておく。もっともこれらをダンスで再現するのではないし、それらを表象することの難しさもある。だが私はそうした出来事と関係を作りたい。今回のダンスのなかに忍び込ませていたいくつかのフォルムや運動のフォーマットがあるが、それらはすべてこのモチーフのなかで探求され見いだされたものである。
 ボローニャではそれらすべてをすべてガラスの破片のように砕いたが、批判されたように、たしかに楽曲との関係性がいまいち効果的ではなかったことが問題点としてあった。しかしながら「complicated」という私の選択した特性はカオス理論における「パイこね変換」をモデルにしたものであり、演出的に意図されたものであった。批判があったからといって別にこの演出を撤回する必要はなかったのだが、しかしひとつの手法に拘るまでもないとも思われ、次のラヴェンナからは、より「アフリカ」に限定したものに変更した。
 具体的なテキストとしては詩編ギニア」、パゾリーニに影響を与えたエメ・セゼールの「帰郷ノートCahier d'un retour au pays natal」をメインに、エリック・ウィリアムズの「コロンブスからカストロまで」などを参照した。 
 こうした歴史的あるいは社会学的な作業をなぜダンスおよびダンス化するのか、書籍の研究とダンスを混同しているなどという愚かな批判を受けることもあるが、そのひとにとっては私の作業がダンスではないというだけのことである。私はダンスが他の文化領域や社会、そして世界の歴史から隔離され、単独でこの世界に存在しているとは思わない。
 私はこのような作業をダンスに練り込み、ダンスというある身体の運動および場所やひとびととの経験的な共有を通じて、より直接的な感覚の次元において共に考えていきたいと考えるのである。ダンスとは思考の形式のひとつであるのだ。
 ダンスは一般的な言語に対して身振り言語とされ、それは明示というよりむしろ暗示するものである。あるいはそれは「記号」つまり「徴(しるし)」の運動であり、ある感覚のなかに経験的な痕跡として共有されるものである。感性の領域における探求でありコミュニケーションであるといっていい。それゆえこれは「翻訳」作業であるともいえる。もっとも、これはたんに一般言語をダンス言語に翻訳するという意味にとどまらず、私が世界と関係を持つその仕方あるいはその過程そのものが「翻訳」である。
 植民地主義の問題や帝国主義の問題については専門家がより正確に考究している。私はダンスの閉域を破るためにそのような知識を「利用」しているというより、そのもっと手前の話として、ダンスを通じて私が世界と関係を切り結ぶがゆえに、このような作業を選んでいる。
 このような私の概念拡張作業に対して抵抗も行われるのだが、それに対しては私は、さまざまな多様なアプローチがダンスにはあっていいのであって、ある画一的なフレームに収めることは、ダンスと芸術にとって、悪しき見方であり、神話的なイデオロギーではないかと考える。

◯状況について
ちなみに現在、西洋では「Non Dance」というラベルあるいはカテゴリーのもとに、ある一連のダンスに対する批判的な作業が展開され、支持されていると聞くが、私はそのような批判的な捉えかえしあるいは脱構築的な作業に対しては、基本的には賛同できるとしても、それがある「モード」としてダンス産業のマーケットのなかでの市場価値基準として作用するような事態に対しては、批判したい。個別の作家の作業をある「商標」として統括していくようなモードのラベルとしての「Non Dance」は、その個別の作家の作業を超えて、市場において抑圧的に作用することがまずは問題であり、また、そのようなフィルターとしての「商標」によって、その作家たちの作業が見えなくなること、そしてそれがモードとして成立することで、ある「趣味共同体」のなかに所属することを集合的に確認していくことをもたらし、それはたんにスノビズムとすらいえるからである。スノビズムはいわば「純粋美学」であり、私は「俗情」と結託することなく、それを「通俗的」あるいは「民衆的」に批判したいと考えている。
 私の立場は、そうしたスノビズムには陥らないようにし、私なりにダンスを脱構築し、ダンスそのものへと向かい、あるいはダンスと自分とをともに織り込みあるいは広げて行く作業を続けようとするものである。もっといえばダンスの原型あるいはその原形式としてダンスを捉え直すことで、専門分化された「芸術」から、ダンスを、「未来の民衆」のために取り戻したいのである。
 
 人間の経験的な過程に関わるダンスは、人間に、社会に、世界に、生物に、記号に、およそあらゆる事象に関わる。ダンスの基本的な素材は身体であるが、もともと身体というメディア自体が、そのように世界に開かれてあるものだから、これは必然だろう。
 ダンスは人生にも関わる。ある踊りがあり、それを受けとるひとがいて、そのひとたちのもたらすフィードッバックである反応や批評をおりこんで、また主体は踊るのである。それゆえこうした経験の次元に一般的な物差しをもって量ることはできない。ひとが経験するとき、それはその主体にとっては特異な所与をもたらすものである。
 この所与についていうと、今回のイタリア経験は、私を強く動かすものであり、それはおそらく今後の私のダンス活動のみならず人生における方向性を規定するほどのものであった。今後、私がダンスの新機軸を出せるかどうかは、これからの努力次第であるだろうから、私と私のダンスがこれからなにをなしうるのか予測はできないけれど、ひとつの強い作用原因となることはたしかである。
 私にこのようなすばらしい経験を与えてくれた関係者各位、同行した参加者、上演を共有したすべての観客、そしてそもそも私にイタリアへの関心を教えてくれた亡き父とパゾリーニの霊に深く感謝を申し上げます。