days 新たな経験

PCが壊れた。ibookG4。やっぱノートは寿命が厳しいか。これで二台目。
 症状はなんというのか、画面が微妙に点滅しはじめ、ついに固まる。
サポートセンターに連絡したときに起動したら、壊れたテレビみたいにウィンドウがどんどん増殖していく。怖かった。
 データはかろうじてバックアップとったが、まだ確認していない。
もしデータがとれていなかったら、写真が全部消えたことになる。これは痛い。
 やっぱ写真は焼いておかないといけない。

昨日はポンクと凡さんという言葉に出会う。テレビでナタリー・ポートマンのインタヴュー。「レオン」のロリータは、ハーヴァード大学を卒業したそうだ。祖父母らはナチスの収容所で殺されたという。

 クリント・イーストウッド硫黄島からの手紙」をようやく観る。重い問題を突きつけられたようで、数日たっても、悶々としている。同様、大江健三郎の「万延元年のフットボール」を新たに読みはじめ一気に読了し、以前中途で頓挫していた仇を討ったのだが、これまた強烈に問題を突きつけられたかのようである。いずれも、等しく、いわばすぐれて「経験的な」作品である。映画の力、小説の力とは、表象それ自体としての力ではなく、その表象を媒介にして、ある経験が伝えられていく過程にあるように思う。
 もっとも、この伝達ないし相互作用には、趣味判断なりその時の関心やあるいはそれまでの思考や経験との噛み合わせがあり、出会えるか出会えないかは、組み合わせの問題ではある。
 「硫黄島からの手紙」は同時代の作品ということで出会いやすく、その主題はこれまでなんとなく聞いたことがあった程度の認識しかなかった半世紀以上前の硫黄島戦の史実を、むろん完全な再現などできるわけはないものの、歴史の事実になんとかして向き合いたいというイーストウッドの誠実な作業によって、十分伝えられた。個別の感想はまた後でのこととするが、なにより擂鉢山のショットが焼きついた。むろん他にもいくつも焼きついたものはある。
 「万延元年のフットボール」の方は、サルトルと、そしてブランショの「期待・忘却」と、ダンテの森と「新生」とが織り込まれていると思った。主題というか背景となる時代状況からすれば、安保闘争から全共闘、そしてこの小説が予兆しているかのような浅間山荘事件に至る学生運動がまさに主題であり、その状況への小説的コミットメントには、すさまじいものがある。
 ただ、この小説を、傑作たらしめているのは、そうした時代との関係やそれへの思考あるいは戦いということだけでなく、世界文学の歴史との「戦い」と、難解で時にはマニエリスティックとすら思える過剰な文体を「乗り越えていく」小説的なプロットの魅力にあると思われる。しかしこの文体の必然性は、読了すれば納得のいくものの、やはり無用な過剰さが気になる。とはいえ、「分かり易さ」というマスメディアないし宣伝的イデオロギーに対して、このような反時代的なマニエリスティックなゲリラ戦という風に考えると、やはりよいのか。