Seoulとカント

飛行機も事故なく、無事に韓国に着きました。
武藤さんご夫婦はツアーのパックで来られており、なるほどどうにもそちらの方が安く、しかもいいホテルに泊まれるそうです。(これは覚えておこう。)
 入国手続きをすませて、さて地下鉄に乗ろうかとしていると、こちらに向かって手を振っているひとがいて、なんか見覚えがあるひとだなと思ったら、真壁さんでした。
 まさか空港まで出迎えに来られるとは思っていなかったので、ビックリしました。

そのあと、地下鉄に一時間ほど乗り、もろもろのことを話しました。
 これまでお世話になった麻布die pratzeも今年一杯で閉館するのですが、真壁さんも苦悩するように、現在のように国家による「文化政策」における傾向とそれがもたらす状況の諸問題など、考え始めると、当然ながら、芸術とはなにか、国家とはなにか、その他もろもろの社会領域との関連なども含めていくと、またも問題が山積みとなり、その山をほぐし、山の形を変えていきたいと思えど、二年ほど前から密かに動いているプロジェクトでも、同様、混乱が続くばかり。
 むろん、こうした混乱は、なにもわれわれに限ったことではなく、日本社会全体の状況との関連も、そしてまたむろん、世界全体の傾向とも関連している。

 今回持ってきた本はデリダとルディネスコの対談集「来るべき世界のために」とコンラッドの「密偵」なのだが、どうにもコンラッドの小説は読めそうも無い。それはコンラッドの本が読みにくいとかそういうことでは毛頭なく、
デリダらの話が、なんといえばいいか、例えばデリダの理論的著作と比べると「刺激的」でもなくまた「面白く」も無いのだが、それは話されている事柄が非常に「リアル」で、またその問題群に対する接近の仕方が、まっとうすぎるくらいまっとうで、それはなにかといえば、この本を読めばいいのだが、世界のいたるところで人種主義なり国家主義なりジェノサイドなり専門学者による犯罪が、実にいたるところで行われているという、本当に、ごく当然の話なのだが、このような「当然」が、もはや成立していないという事態が、まさか人々が本気でそこまで例えば国家に身も心もを預けるのをよしとするはずがないのだが、どうにもそうした力の流れはますます浸透し、…たとえば「格差社会」をめぐる言説でも、「負け犬にものをいう権利はない」とかいう、とても権力を持つものの発言とは思えないほど(つまりマキャヴェッリ以前)のあさましい発言のヴァリエントばかりが跋扈し(なんとかいう女史とかその他膨大な…)、…つまり、非常にアクチュアルである。

 しかも、そうした問題の雲が、いつもよりも増えているなか、20年ぶりに韓国に来て、まだほんの断片しか観察できていないのだが、意外なまでに、以前と変わっていなかったことに、正直驚き、むろん以前よりも高層ビルはすごくなっているのだが、夜店などは驚くほど以前と変わらず、他方、テレビはこちらは予想を上回る質で、一向に像が結ばない。日本と韓国との文化関係はやはり相当、厚みがあり、それは単に、いわゆる近代化の過程のなかでの旧日本帝国主義の問題などにとどまらず、もっと奈良時代とか、大和朝廷統一とか、そんなところから感覚というか感慨が沸いてくるような感がある。これは以前から冗談めかしていっていたのだが、今回あらためて聴いた感覚からいっても、イントネーションが部分的に、本当に九州弁や大阪弁に類似しているのである。もちろん、部分的にではあるが、すくなくとも、笑えるほどは似ている。
 羽田から九州に行くのとほとんど変わりのない飛行時間もあって、またホテルのインターネットルームで日本語のキーボードが置いてあり、しかもテレビではNHKすら流れている。これはこのホテルが日本人向けに造っているからなのかもしれないが、やはり、「近い」のである。

 そうしてまた、偶々耳にした複数の日本人男性のなにげない「おしゃべり」のなかに強く漂う帝国主義的身振り。他愛もない、の一言なのであるが、以前も書いたように、今日のプチファシストこそが「民族の矜持」を損ねていると、右翼に代わって怒りたくなるほどである。
 
 そういえば先日のエントリーで、ファシストは差異を滅ぼし統合化・画一化をすすめる、と書いたが、教条主義的な左翼やマルクス主義者も、別にスターリンなどの名を出さずとも、ファシストであることがあることに思い当たる。
 こうなると、「ファシスト」という概念と、「右翼」「左翼」という対立軸とは簡単には対応していないし、もちろんここに「人種主義」でも「ナショナリスト」でも連ねていっていい。

 苅部直の「丸山真男」を読んでて、丸山の、ジェンダーに関する非常にきわどい発言などを見ても、あるいは「丸山はナショナリストだ!」という「左翼」からの批判などを考えても…


 私はといえば、左であれ右であれ、批判は行うし、そうした批判のなか、もはや同志も得られず、完全孤立になったわけだが、それゆえ、柄谷の後追いのようで嫌なのだが、やはりカントをきっちり読みたいと思うのである。

 いま思い出したが、たった四日しかいないが所持する本は重要なわけで、二冊を限度とし、さてどの本を持っていくかを選ぶことでおそらく数十時間は費やしたと思うのだが、カントの「啓蒙とはなにか」を持ってくることに一度は決めたのだった。

 公演は明後日であるが、意外とスケジュールが自在でゆっくりできるので、緊張することも無い。
失敗してもいいし。「どんどん失敗してください」とmzさんにいわれたが、あれはうれしい言葉だった。

 誠心誠意、私の身体を仮の宿としている精神が踊るだけのことだ。

露伴の「突貫紀行」の冒頭の文句がよみがえる。

 たしか、身には疾あり、心には憂いあり、…金もなく、未来も見えそうにもないが、よし突貫してこの逆境を出でむと決したり、であった。

 どこへ突貫するかといえば、より理論的なところを練りこむこと、それはつまりもっともっと批判的な作業を始めたいということである。とりあえず、このことはもはや舞踊や舞台とは関係がない。まったくないかといえばそれは違うが、以前よりも気持ちが悪いと思っていた「舞台芸術」という「専門領域」に対して、実際、反吐が出るからである。バックミンスター・フラーは「専門分化」を「諸悪の根源」といい、またフーコーは「ディシプリン」を近代の統治技術の問題として緻密に論じたが、それは通常「規律訓練」と訳されているが、これはまた「専門分化」ともいっていいようだ。こう見ると、フーコーの「言葉と物」がまさに「専門分化」を問題にしていたのかと、よく分かる。
 個々の言説を逐一批判しようにも、それはまるでネットのプチファシストを潰そうとしたり、2ちゃんねるで真面目に議論するようなもので、シニシズムの王国のなかできちんと思考を進めるには、いまは時機が悪いと思うからである。
 
 またこうしたシニシズムがよく偽悪ぶっていう形式に、反教養主義がある。教養なんてくそくらえ、と。
 私自身は「教養」という概念に意味を見出せないし、また大正教養主義とかなんだとか、たしかにそんなものどうでもいい。だが、例えばカントを文庫で読めない時代が来たら、その時点でその文明は滅びると思う。
 
 いまのプチファシストが実際には自ら呼び込んだグローバリゼーションによって、自身の存在理由を自ら消し、パニックになっているように、反教養主義をうそぶいて、ちょい悪インテリを志す者も、馬鹿の痕跡をのみ残して消えることだろう。なぜなら、真の不良にとって「教養」など、そしてまた多くのひとびとにとっても、「教養」など、また真の思想家にとっても、「教養」など、どうでもいいものだからだ。
 「反教養主義」も、そしてまた「教養主義」も、ともに、たとえば「大正教養主義」とかを想定している以上、なんにもならないと思う。
 今日の「教養主義」の代表である柄谷行人は「岩波文庫を読め」と、とうとういってしまったが、当然ながらその言い方は間違っている。いうべきは「カントを読め」であり、あるいは‥である。つまり「岩波文庫」など、どうでもいいのである。カントはすでに他の文庫でも読める。「岩波文化」を私は嫌いではないが、もはや柄谷のこのような発言は、まったくもって、今日の左翼の堕落を指し示すものであると思われる‥とはいえ、「人文書など売れなくてもかまわない」と、ごくごくまっとうなこともいっているところなどは、さすがではあるが‥
 


 ‥私はもっともっと厳密に、それこそカントと同じレベルで、思想を練らなくてはならないと思う。
 それが行われるべき実践である。
 これはまた、実験主義を徹底させたいということでもある。
 私にとって、舞踊とは、このような実験以外の何ものでもなかったし、これからもそうだろう。
 
 
 このように新たに心情の体制ができたのも、すでに何度も書いているアラン・バディウのおかげである。

 ‥ちょっとキムチを食べ過ぎたかもしれない。