暁の果てに、向こうへ行けと…

…私は秩序の下僕に言った。
 とは、エメ・セゼールの詩、「帰郷誌」の冒頭である。

セゼールについて、ネグリチュード運動について、「近代西洋」を成立させた植民地交易と、それに伴う富の蓄積による近代資本主義の興隆について、再び考え始めると、またもや延々たる苦難に晒される。
 実際、かりそめにであれ、これら「近代」の生成について考えれば考えるほど、どんづまるし、絶望するしかなくなり、まったくの不能状態に入っていかざるをえない。
 スペインやフランス、イギリスその他の「旧西洋帝国主義」は、20世紀にアメリカによって再編成され、一見なりを潜めた。
 状況はたしかに100年前あるいは400年前とは、当然変わった。

現在では、その名は「グローバリゼーション」というより中立的な言い方で事態が名指されて、それへの抵抗運動などもあるものの、結局、資本主義に変わる経済システムを提示できない以上、力を持ちえず、結果、細々とした小さな声が散発的には起こっては、無化されていく。
 
 良識ある思想家らによって、「近代西洋=ヨーロッパ」はたしかに、ナチスによってその必然的な帰結をいやというほど、知り、その事後処理によって、もはや「ヨーロッパは終わった」という認識がひろくひとびとに共有されていることを、マテオと遊ぶなかで、そしてこれまで会ったヨーロッパ人の言動の記憶とともに、想う。
 マテオから薦められるがまま、ソフィア・コッポラの「ロスト・イン・トランスレーション」を見て、あるいは日本のアニメ・マンガの圧倒的な「グローバリゼーション」を見知ると、いかに「日本」というか、「TOKYO」が、「未来の都市」として想像されているかが分かる。
 私はS・コッポラのフォトグラフィーの美しさは認めることができるとしても、そのあまりのイリュージョン、つまり「日本」への幻想に、腹が立った。
 しかしこの「ジャポニスム」は、たとえば日本の「国益」を考えるならば、歓迎されるべきものだろう。実際、この映画は、まるで日本の旅行会社がスポンサーでついたかのような、徹頭徹尾、CM的な映画である。

 いや、この映画についてではなかった。

植民地主義について、今日いかに考えていけばよいのか、ということである。

いわずもがな日本はすでに「列強」つまり「西洋」にある。
 今日のナショナリズムの最大の原因は、よくいわれるようなインドや中国からの追い風に対する不安ではなく、むしろ自身がいつのまにか(といっても、その歴史的認識はすでに行われているが)導入し体現してしまったグローバルな経済システムによって、日本の「伝統」なり「国体」なり「固有性」なりが脅かされてきたことによる。

 いまあえて「グローバリゼーション」を「普遍経済」とすると、これは普遍なるものと固有なるものとの相克である。
 
 …

むろん、真に「普遍」なるものが「グローバリゼーション」ごときではないのも、また確かである。
 現行の「グローバリゼーション」が、すべてのひとびとの幸福を増大させていくなどということは、状況の兆候をいくつか見れば、ありえないことは明瞭である。
 
 だが、「すべてのひとびとの幸福を増大させていく」ことが、そもそも可能なのか、それはユートピア的な夢想のヴィジョンにすぎないのか、それとも、これまでの「近代」が、「あることの夢」にすぎないのか。

 「日本ではすべてが可能だ」と、あるヨーロッパ人は言った。
歴史の終わったヨーロッパにとって、日本は、未来であるそうだ。

 今日のジャポニスムが、マルコ・ポーロ以来の「ジパング」神話で、それが単にオリエンタリスムの一種類にすぎないとしても、そのことをいう「日本人」もまた、オリエンタリズムを持つ「西欧人」である。
 
 サブカル的な受容や伝播あるいはグローバル化にとどまらず、日本が世界の未来であるとは、なんとアラン・バディウの発言でもある。
 
 このようなジャポニスムを善意でとれば、日本にはある期待が掛けられているということである。
 
 現在、日本に住むわたしには、到底、これが世界の未来ではあるべきではないと思うのだが、しかしもし、従来の「西欧」へのベクトルに掛けられていた学習の努力のベクトルを、改善のベクトルに変えることができたら、もしかしたら、日本は、本当に世界がうらやむ社会を作り出すことができるかもしれない。

 しかし、現状はといえば、ナチスの夢を体現した国、すなわち「国家社会主義」がますます実現されていっているにすぎない。
 
 SJさんにこの私の指摘に賛同してもらったことが、いまの私にとって、ほとんど唯一の糸となっている。
 …

シニシズムの身体化に他ならない享楽身体が持て囃され、そしてそれが唯一の社会記述の方法であるかのように自己主張し、分けのわからない「運動批判」を行うその姿はまさに「退廃」であると思え、ヴィスコンティの「地獄の堕ちた勇者ども」を地で行っているなと、自戒を込めて強く思う。