days 中国とアイヒェンドルフの数

中国に行って来た。20年振りかの家族旅行。
上海と昆明にそれぞれ二日づつ。怒濤の四日間だったので、慌ただしく、しかし濃密で、消化するのはこれから。

それにしても、中国、でかい。人が多い、建物が多い、街がでかい。観光というより、やはり日本との比較対照が、ひどく面白い。
中国については、東京に帰ってから、ゆっくり書きたい。

旅行に起つ前、早岐の古本屋で、岩波文庫版のアイヒェンドルフEichendorff「のらくら者の生涯よりAus dem Leben eines Tagenights(1826)」を見つけたので、買っておいたが、それを持って行って読んだ。もう一冊、オーウェルの評論集を持って行き、「象を撃つ」と「鯨の腹の中で」他を読む。
 アイヒェンドルフについては、カルヴィーノが言っていたので、以前より気にしていた。たしか中村真一郎が対談しようとして、イタリア側の通訳がまったく日本語を話せず、カルヴィーノが、なぜこんな無意味なことにつき合わなくてなくてはならないのかとうんざりしていたとき、英語かドイツ語かで、聞き出していたことだった。ユリイカカルヴィーノ特集号に載っている話である。中村が、どんな小説が好きかと聞いたら、カルヴィーノは「ドイツロマン派」と答え、どの作家が好きかと聞いたら、「アイヒェンドルフ」と答え、中村が「Tagenichts」といったら、微笑したというものである。

この「のらくら者の生涯より」は、昔の文学全集で出ていたので、持っていたのだが、単行本はなかなか持って動けないので、読むのは頓挫していた。
岩波文庫で出ていたとは知らなかったので、ちょっと興奮した。
 題訳は「愉しき放浪児」といって、関泰祐訳。中村真一郎が読んだのも、多分、この本だろう。なんと1938年に初版が出ている。1952年改訳、1991年で15版とあるので、日本でもかなり読まれてきたもののようだ。

今回、最終日に、朝、昆明を起ち、上海虹橋空港からタクシーで浦東国際空港まで一時間かけて移動し、浦東から福岡、そして佐世保に至るといういま思えば観光旅行にふさわしくないハードな移動スケジュールだったものの、飛行機というものは時間だけは余るので、読めた。
 この移動にふさわしく、小説も速度のある軽快な喜劇で、ヴォルテールカンディードや、あるいはホーソーンやトウェインらアメリカのスラップスティックに通じるもので、愉しく読めた。そしてなにより、カルヴィーノが骨の髄までアイヒェンドルフを愛しているかも分かった。

22頁にある数字の描写が不思議で、というか、クライストの「拾い子」でも、同様の不思議な数についての描写があるのだが、これはなんだろうか。
 アイヒェンドルフのこの小説のなかでは、主人公ののらくらもの(小説内で「無職の天才」とも言われたりしている)が、恋するお嬢さんに、花束を渡したあとの心理状態の描写として出て来る。のらくらものはいまはお屋敷内の収税使として働いている。

その晩から、ぼくにはもう落ち着きも休息もなくなってしまった。ぼくは、春がはじまろうとするときいつでもそうあるような、なぜとは知らず大きな幸福かあるいは何か途轍もないことが起ころうとしているような、たえずそわそわした嬉しい気持ちだった。とりわけ厄介な計算に至っては、いまはもう全然はかどらなかった。そして日光が窓のそとのカスタニエンの木をとおして緑金色に数字のうえに落ち、すばやく、繰越高から〆高まで、上から下へ、下から上へと加算するようにちらつくと、ぼくはまったく異様な考えにとらえられて、ために頭はすっかり混乱してしまい、ほんとうに3までも数えることもできなかった。なぜなら、8はいつも、大きな髪飾りをつけ胴をコルセットできつくしめた肥った淑女のように見えたし、意地悪の7は、永久にうしろを指す道標か絞首台のように見えたからである。一番
おかしいのは9で、うっかりしているたびたび面白そうに逆立ちして6になっているし、2は疑問符みたいに、狡猾そうな目つきでにらみながら、ぼくにこう訊こうとしているようだった。「けっきょく君はどうなるんだい?可哀想な0君!彼女が、あのすらっとした1にしてすべてである彼女がなかったら、君は永久に0じゃないか!」

もっとも、こうした数字との幻想・妄想を、詩的技術としてかたづけると、特になんということもない。
 だが、この小説のなかで描かれる速度とあわせて考えてみると、当時ますます展開していくヨーロッパの社会経済的な状況つまり資本主義の興隆を裏側から見るようにも思われる。
 この数への幻視については、クライストとの比較や、計算可能性としての数を憎悪したハイデガーなどと対照させていったら、面白いかもしれないが、めんどくさい。


帰国したら、幾人もの人が自殺。

書庫を整理していると、ドイツ文学者の高橋健二「文学と文化」があった。目次を見て、驚く。高橋健二については、高田里恵子が「文学部をめぐる病い」で論じてるが、未読。