days 連続会議

帰京してからというもの、連日、会議あるいは打ち合わせ+稽古。
 大変ではあるが、いまここでガンバル時なのだろう。
さっき、むかしの記事を振り返っていて、稽古での作業を書いていたものを読み、現在の作業についても、本当は秘密にするより、公開していった方が、いいのかもしれない。
 まあ、簡単には、社会的承認や評価を気にせず、タンタンと、作業をすすめていくのみ、ということなのだが。
公演という形式については、なによりコストが大変で、こればっかりは、実演者にしか分からないことだろう。
 これまでいろいろ聞いて、それなりに耳年増でもあり、あまりに投資しすぎて、借金を背負い、公演を出来なくなったひとも多数いる(具体名は出さないが)と聞く。
 それだけの投資をなさった方々の情熱には敬意を表したいものの、自分でそこまでやる気にはなれない。
 トリシャ・ブラウンのDVDなどを見ても、ヴィデオが多く、たしかに、せっかくヴィデオというメディアがあるのだから、なにも公演形式にこだわらず、ヴィデオ形式で、作業を記録していけばいいというのも、ありである、とは最近の考え。
 作品の性格からいえば、イマージュオペラとしては「油田II」で、テキストをとるのはやめ、作業の焦点を、いわゆる舞踊の内部に限定することにしてきている。テマティック(主題系)はその後も、なんやかやあるものの、以前のようなテキストへの限定は、止めている。
 とはいえ、テマティックなしに、純粋舞踊で事足れりとするほど、私は芸術至上主義では満足できない。
芸術至上主義というのは、これまた実際は、幼児症ともいっていいだろうと考えるからだ。
 いわゆる芸術は、アリストテレスのいうディアゴーゲー(楽しい暇つぶし)であるから、それは娯楽以上でも以下でもない。
 かのブレヒトですら、この楽しみについては触れていて、オルガノンにおいても、理論的には矛盾してそうなのだが、これは限界における認識ではある。
 そうなると、ブレヒトの各種芸術批判も、結局は自身の美学の正当化理論にほかならず、あくまで芸術世界内部の闘争であったということになる。
 それゆえ、ブレヒト主義を任ずる者が、芸術至上主義を批判するあまり、社会に還元しようとして、フラットにしたところで、それは、非芸術的な社会的な行為でこそあれ、芸術とは無関係の話になってしまう。ブレヒトも罪な男だ。(もっともいま念頭にある事例のそのひとは社会人としての常識すら見失っている。意地悪な意味で、完全な、ゲージュツ家。もうやめてほしい。)
 作業の内容について書こうとして、つい芸術一般論になってしまった。