days 「多数派主義」あるいは泥の舟

(以下は6/2に書いた分+追記。倉庫から出してみる。)

昆明で買ったおみやげ用の小さなお酒を、福岡から羽田へ行く便で没収されそうになる。手荷物に、ではなく、預けるトランク(受託荷物)のなかにさえも、液体のものは一切入れてはいけないというのである。
 国際便では持ち込み可能で、国内便、それも一日何便も出ている福岡ー羽田間の航空便では禁じる、というのは、どう考えても、おかしいのではないか。というと、そうですね、と苦笑していた。
 理由を聞くと、トランクのなかで液体の容器が壊れると、他のお客様のお荷物にかかってしまうことがありえるから、というものだった。
 なにそれ。
東京に帰ってからその話しをすると、信じてもらえず、あるいは、それって、いやがらせを受けただけじゃないの、といわれたが、実際に経験したことである。
 カスタマーセンターにこの件を伝えたら、話しは聞いてくれたのだが、やはりこの矛盾に対しては、納得のいく答弁は得られなかった。というか、担当の方も、私の言い分に納得していた様子だった。サービス改善につながってくれれば、と思う。

こうした荷物制限は、もちろん第一にはテロなどの危険行為への防御ということで行われているのだろう。
 ペットボトルテロのせいで、こうした制限に神経質になるのも分かるのだが、それだったら、国際国内全線、液体物は一切持ち込み禁止とかにしてくれないと、困る。今回のように、おみやげなどで酒を買って、空港で没収とかになったら、無意味だからだ。
 いま各種航空会社の受託荷物関連のページを見ても、火器系についての記述はあるも、液体物の持ち込み制限については、記述が探せなかった。
 ということは、昨日の制限は、なんというか、任意というか、恣意的に行われたことだったのか。

 今朝は、やっぱ昨日のチェックはおかしくないか、と思い出し、カリカリしはじめ、溜まっていた疲れもあってか、ジャケットをどこかへ紛失してしまう。

 カリカリするのは、私が不幸だからではないか、ともいわれた。


そういえば、先日のJRに関する記事に対して、禁煙運動を推進するものや、なにものか分からない、もしかしたらJRの職員かとすら思われるほどの「JRに非はない」と主張する者らから、トラックバックがあった。それらについて一応の答弁を書きはしたものの、アホらしくなって、まだ公表していないが、右翼でさえない、いわゆる「ネット右翼」的な心性の実態は、卑小な意味での、「保守主義」であり、それはつまり、「多数派」に準じるというものである。連中はなぜああまで「批判」なるもの全般を封鎖しようとするのだろうか。
 ひとつには、自身の「自我」と「多数派」とを連続したもの、あるいは同一視していることが挙げられる。これは個人の自我と、国家や国民の次元での拡張された集合的な「自我(というか同一性)」とを同一視するナショナリズムやあるいはセクティズムなど全般に見られる現象である。このことについてはこれからも考えていくとして、このような同一視によって、たとえばJRを批判すると、あたかも自分が批判されたかのように受け取り、結果、批判を封鎖することに勤しむということになる。
 しかしながら、こうした錯覚は根源的に間違っている。それは、問題となっている対象(主体)を、別のものに置き換えているからだ。つまり、問題提起に対して、それが問題ではないというのなら、いかにその問題構成が成立しないかを述べなくてはならないのだ。
 むろん連中は連中なりに論じるも、そしてむろんなかには少しはまともな反論もあるものの、結局は、問題そのものを見ようとしないままで、反論あるいは罵倒や封鎖を行う。つまり、ある問題化に対して、それは問題ではないと、問題を矮小化したり無化するだけなのだ。
 このようなことを考え始めると、ついついモラリスト風情になってしまい、もしかしたら、それが一番、自分に合っているのかもしれないと思いつつも、性善説的な相対主義におちいってはならないし、できる限りもっと根本的なところから考えていかないと、だめだと思う。まあ思考を深めるといっても、練っていかなくてはいかないわけで、すぐに解決するわけがないのだから、急ぐことはないのである。

戻る。
 禁煙運動に限らず、かのような全体主義的な錯視からは、いっこうに問題が見えないし、また、問題化そのことすら忌避している。
 私が禁煙喫煙問題で書いたことも、異なる権利主体の共存を訴えただけにすぎないのに、連中はそうした共存のことを読まずに、コスト負担の問題とかほぼ無意味といっていいような次元の小問題に事柄を矮小化し、その実、行っていることは、たんに喫煙者、少数派の権利主体の排除にすぎないわけだ。

 また連中は大方は匿名であり、それがゆえ、「無責任状態」にある。
右翼的あるいは保守主義的な思想傾向をもっているひとで、実名なり、なんらかの仕方で責任を果たそうとする方々については、内容次第では、もちろん私は批判するものの、さしあたっては最低限の規則を守っているという点で、いいと思う。
 が、匿名者の場合は、そのあまりの卑劣さと無責任な幼児性について、実際、呆れるしかないのだが、かといって放置するのも、まずいので、どうしようかなとこの間思っていたのだが、「論座」7月号でベネディクト・アンダーソンのインタヴューがのっていて、排外主義的なナショナリズムは成功しないとの主旨が述べられていて、一瞬、楽観的にすぎないかとこそ思え、たしかに連中に実際の力はないのだろう、とも思える。
 復古主義というかなんというか、再び総力戦を夢想するノスタルジック・ファシストのいう「軍備」など、考えてみれば、まさに悪しき意味での「偶像」にほかならないわけで、北朝鮮なり中国なりの「外敵」が侵略してきたらどうする?と、不安や恐怖を煽り、批判者を脅迫するのであるが、現在からすれば最後の総力戦であった第二次世界大戦終了以後、総力戦という形式で戦争が行われたことはないし、これからも、よっぽどの状況、たとえば資源を巡るものなどでもない限りは、国民国家間での総力戦は考えられらない。もっとも、低中強度紛争はありえるが。
 
 アンダーソンは前掲誌で、最近の日本のナショナリズムについては、結局、自分に自信が持てないということではないかという旨のことをいっている。核心を突いている。
実際、このロジックの生きた典型とそれに追随する気概のない者を、日々目にすることができ、うんざりもするのだが、まさに連中は、自信がないがゆえに、卑劣で、妬み深く、知性のかけらもなく、いかにもみじめだ。

 馬鹿は黙殺に限る、とも先達は教えるのだが、一応、浄土真宗の家に生まれたものとしては、悪人正機説が自分のなかに染み付いているもので、どうするかとも一時は思ってもいたし、仏教でも、やっぱ大乗仏教でしょう、小乗仏教なんて、仏教じゃないという意見も、強くあり、それは正論にも思えるものの、溺れるもの救うべからずという、塚田先生が話してくれた仏教説話(もちろん小乗系として分類される話なのだろう。泥の舟の話。)は、実体験においても、そうするしかなかったのを思い出す。
 もしあの時、溺れる父を救うために、自分がもっと関与していたら、いまごろ生きてはいないかもしれなかった。
あの午後、岡田先生と談話していたとき、まったくの偶然から塚田先生がその説話を紹介してくれたおかげで(うろ覚えだが、私が質問したのかもしれなかった)、危機をとりあえずは乗り越えることができた。そのあとは、彼を救えなかった自分を責めるという地獄の鬱時代に突入したのではあったが。

 修練か。

それとは関係なく、今度、座禅しにいこうかという話になった。瞑想は少年期よりやっていたし、私の踊りに向かう最も重要な作業のひとつであるが、きちんと座禅を受けたことがない。
 禅宗といえば、高校の時の授業で、公案の映像を見たときに、うひゃーおもしれーと思ったのだが、見学はできないのか、調べてみよう。