AGPAA綱領会議

 二年ほど前より、有志によって、現代日本における舞台芸術界とその状況を巡る諸問題を考える会議が行われてきた。名称については現在まだ未決定ではあるが、「日本前衛舞台表現者連合(仮称)」(略称:AGPAA)となる見込みである。
 いまだこの会議を全面公開していない理由は、まず参加者間での議論が膠着し続けたことが挙げられる。かくいう私も一時はこの会合にある事由で絶望し参加を辞退していた時期も長くあったが、やはりこのような連合はあるべきだと強く思い、仕切りなおして、会に望んだ。
 今日の舞台芸術界の状況とは、現在の私の見立てでは、助成金制度の功罪を筆頭に、その他は新保守主義の諸症例の見本市にほかならない。
 助成金制度によって、舞台芸術は一部経済的に恵まれてきたものの、他方、審査評価基準(たとえば審査過程の公開)が行われないまま、文化政策が行われてきた。そのことによって、むろんこれもあくまで限定的な意味ではあるが実質的に「検閲」が行われているといっていいような事態をもたらした。
 また、資本主義イデオロギーの一事例にすぎない商業主義はますます興隆し、芸術市場の資本主義化ももはや円熟期に入りつつあるような感すらある。
 このような国家と資本の運動の跋扈に対応するもっとも賢明な方策はといえば、政治的社会的な問題意識をできるかぎり排除し、「美」を享楽するような態度で、芸術作品(商品)を生産していくことである。
 文化経済学的な観点からすれば、このような事態は、当然のことながら日本国にとって、好ましく、ましてや諸外国に日本国商品として買ってもらえることともなれば、それは国益の増大につながるわけである。
 私とて、そのような国益それ自体を否定するつもりはない。世界の中で日本国が孤立するよりも、文化が共有されることで、新たな出会いや人生を築いていくこともできるということは、たしかにすばらしいことだろうとは思う。(世界経済全体における問題を考えた場合、このような言い方は一国主義のようでもある。だが、この件については、不可能であるかもしれないが、世界主義の理論の構築を課題としてもいる。)

 だが、国家と資本と美の三位一体は、価値の一元化をもたらし、本来は多様性をその本性のひとつとする芸術を貧しくしているのではないか。この問題意識を共有し、この問題をいかに解決すればよいのかについて徹底的に考えていこうという趣旨で、この会合は構想されている。また、重複になるが、このような問題意識の是非は、徹底的な分析と思考と批判とによってしか、決定しない。
 この間の記事における「権威主義」「多数派主義」についての記述は、このようなことを思考していくなかで見出されたものである。
 
 とりあえずはここまでにして、次回会議の日時を告知する。

 7/14 pm6:00〜 @カンバスにて。参加費500円

 この告知も、会議で認可されたわけではない、私の個人的な行為である。それゆえ、この告知についても、責任をとる。
 この告知を見て、参加したいと思われる方は、多くの場合は、私の直接的な知り合いであろうが、この会議はこれまでほとんど反生産主義とすらいえるほどまでに、徹底した議論を経てきているので、その点、認識したうえでご来場ください。
 
 私は前回会議において、もしこれまでの二年回の議論が現在ほとんど徒労にすぎないように見えたとしても、私は、間を置いたとはいえ、肯定したい。もしこの経験を肯定できないのなら、解散しかありえない、と述べた。
 そして次のような趣旨のこともいおうとしたつもりだった。
この間の議論膠着も、この時代の症状に他ならず、問題それ自体がかくも膨大で複雑だからこそ、そしてまた他方、私たち自身が怠惰であったことの代償であると。
 
 未来への展望のないその場しのぎの新ナショナリズム新保守主義も、闘争の歴史を研究しているだけの文化左翼も、すべて放逐していくことはできないにせよ、そのような死の力に導かれたものではないような、新たな声を上げていくこともひとはできるはずだ。

 現在、次回綱領会議にむけて、草稿を準備しているのだが、実際、あまりに問題が多く、大変である。
 とりわけおそらくこの会議にとって非常に重要な争点となることは、かつてあった「前衛」をある絶対的な価値すなわち「権威」として見なすような、「前衛主義」に内在する権威主義である。私自身、これまで関与してきたそのような勢力にほとほとうんざりもしているが、他方で、必ずそのような実質のないものは消失することだろうと思う。
 このようなことはもちろん、舞台芸術固有の問題では断じてなく、世界全体に共有される問題である。
 すなわち、今日、前衛とはなにか。この問いとはなによりもまず実践に関する問いであり、芸術とはたんに世界の記述であるだけではなくして、抵抗をも包含するものであることを、理論だけでなくして実践=創造行為としても証明せんとするものである。
 次回会議では、言いだしっぺの私が綱領作成にむけて問題提起をする予定であり、あるいは他の方の問題提起と磨りあわせ、私がこれより世界とどう向き合い、小世界としての舞踊あるいは活動をどう提示していくかを、誠心誠意ぶつけていきたと思う。
 舞踊家としての私にとって、このような実践は、これまでのあらゆる舞踊を「権威」として見なすことなく、新しい運動イマージュ=舞踊を、いかに提示できるのかという問題を処理していくことに寄与しもすることだろうと期待するも、それすらも、エゴイズムとすらいえるかもしれない。
 とりわけ、既述したような意味での権威主義としての「舞踏主義」なり「アングラ主義」の放逐と止揚こそが、喫緊の課題のひとつでもある。
 もっとも、また他方で、馬鹿と戦うと馬鹿と同じ土俵に立つことになるよ、とある先輩にいわれたのだが、人生訓としてはたしかに納得もいくも、そこに含まれる問題とはやはり普遍性を含む場合もあるのであり、つまり、それが、政治なのだ。
 そして政治の目的とは、個人の利益とか集団の利益とかではなく、できうる限りそのような利害(インタレスト)を超えた、共通の善を模索するために行われるべきである。
 
 さらに付記すると、最近はずっと、「近代の超克」論関係の資料と、ハイデガー問題、そしてカントの歴史=政治哲学の研究につきっきりである。やればやるほど、このあたりの問題は非常に重要で、かつて手がけたのに放置してしまった愚を反省しつつ、認識が練られていくのを経験できることを幸福にも思う。