ネグリの演劇論:内在性の思想

 ネグリ講演集が二冊文庫になってた。下巻「<帝国>的ポスト近代の政治哲学」ではハイナー・ミュラーについても大いに語っている。ネグリは戯曲を書いたりもしているようだ。そういえばアラン・バディウも戯曲を書いていたはずだ。

アントニオ・ネグリ講演集〈下〉“帝国”的ポスト近代の政治哲学 (ちくま学芸文庫)

アントニオ・ネグリ講演集〈下〉“帝国”的ポスト近代の政治哲学 (ちくま学芸文庫)

ネグリドゥルーズバディウの内在主義を引き継ぎ、演劇は内在性の実践であるとしている。内在性の思想についてネグリは、この世界が外部を持たないこと、この世界の構築と必然性はこの世界の内部、すなわちわたしたちの経験にあると、要約する(p.51,p.113)。

 私もバディウの諸理論、とりわけ「芸術の主体」に触発されてからというもの、世界と世界のようなものとしての身体、および出来事と出来事のようなものとしての痕跡や像、それら四つを関係づける主体の創造のことを考えてきたので、ネグリの論は時機に応じたものだった。バディウは享楽の唯物論や犠牲の絶対的観念論でもない、新しい主体のパラダイムを提出しうるのは芸術なのであり、そしてそれが芸術の責任なのであるとした。この理論は非常に刺激的である。「猛り狂う老年」について語ったドゥルーズが投身自殺した年齢と同じ年齢の70歳のバディウは、「世界の論理:存在と出来事2」を書いていて、早く読みたいと思うが、それよりも、その事態が、生きていく勇気を与えてくれる。
 Alain Badiouで検索すると、英語圏ウィキペディアが出てくるのだが、記事内容が充実しているだけでなく、リンクがすごい。なんと講演の動画もある。

さてネグリであった。ネグリは前述したように、スピノザドゥルーズに由来する内在性の思想を語る。誰かも書いていたように、論理のプロットは電波系である。「内在性」と延々繰り返し語っているのに「外」からやってきた言葉のようである。監獄のなかでの思考の体験も反映されているかもしれない。もっとも、綿密に読み込み、ネグリの思想について理解が深まればそういった印象も消えるのかもしれないが、現在の印象では、たとえばドゥルーズバディウと比べても、外発的・外来的であるように感じられる。もっとも後期ドゥルーズ宇宙線について神妙に論じたり電波的でもあったし、あるいは内在主義を突き詰めればかく電波系になるのかもしらん。

また、今日、演劇に対して多くのひとがそのライブ性・スペクタクル性やメディアとしての古さを論難しつづけるなか(日本において顕著なのかもしれない)、ここまでネグリが演劇の存在論的・政治的機能について熱く語るのも意外というか、その擁護の仕方は、異様ですらある。
 
 ネグリのいう「マルチチュード」は、「people民衆」でも「mass大衆」でもない、新しい語である。この講演集のなかでも書かれているように、政治用語は新たに書き直されなくてはならない。とはいえ、すぐ「マルチチュード」はビジョンなきスノビズムに回収されるという陥穽もあり、事実、状況は悩ましい。あるいはまた「マルチチュード」が「多数派」として誤解されることもありえる。
 
 スノビズムの王国である日本では、理論的な言葉を軽蔑する傾向が非常に強い。旧来の軍国主義的な精神主義においてもそうだし、あるいはそこで参照される伝統的な精神論においてもそうだし、あるいはまた素朴な意味での実用主義(これと「プラグマティズム」とは区別されなくてはならない)的な観点からもそうだし、ネオコンサヴァティズム的な観点からもそうだ。また、ネグリチュードの研究者である本橋哲也氏が沖縄で発言した暴言*1(もっともその内容は「文化左翼」的言説の典型である)も残念であれば、どうやらいまでも続いている旧・「新左翼」の内ゲバにしても、あるいはその理論主義というか教条主義もどうにもならない。左翼小児病にせよネット右翼的な右翼小児病にせよ、その外に立つのであれ内にとどまるのでれ、準拠枠組みが国民国家である以上、いずれも国民国家的な世界観である。
 国家を超越するのか内在するのかの二者択一だと議論は不可能である。すくなくとも、その選択についてのみ議論する限り、それは対立を確認するだけに終始するので、対立点や争点・問題点について吟味していくことができない。議論にあたっては、やはり問題を分化させ、ひとつひとつ丁寧に考えていかないと、一歩すら踏むことができない。ま、国家をいかにデザインするのか。そこで考えていかないと、政治論議にもならない。だから、利権闘争ばかりなのだ。

内在性ということでいえば、国民的同一性とそれへの内在ということ(国民的/社会的内在主義?)と、バディウらの内在主義とは厳密に区別しなくてはならない。そのためには国民的な内在主義ではないものとしての、内在性の思想が提出されなくてはならないし、まずは翻訳紹介もやはり求められる。
 内在主義といっても、メタレベルでの捉え直しを踏まえるという意味での超越論的な段階を経験的に通過しないと、素朴な「自我」への内在主義になる。
 日本における国民的内在主義も実際には、研究・教育制度という構造的な原因によるとも思われる。新左翼的な理論主義への反動で、一般理論をも軽蔑するようになり、個別の専門分野へと問題を縮小させてしまうような傾向が、アカデミズムでは強いとも聞くが、私には、ずっと昔からそうだったのではないかと思え、素朴な意味での実証主義、あるいはディシプリン=規律訓練=専門分化的な観点からは、メタレベルで捉え直されることなど、不要だし、不快なのではないか…

…もちろん排外的なナショナリズムは日本には限らないし、あくまでそれらは部分的な勢力である。
これまでの抵抗理論が状況に関与できないのは、状況が様変わりしたからであり、これより先の抵抗の理論は、また新たに紡いでいかなくてはならない。つい日々の仕事に追われ時間がなくなるということに甘んじることなく、私なりの抵抗の理論を構築していかなくてはならない…