「笑熱地獄」のlatitude

大西巨人「地獄編三部作」を買った。

地獄篇三部作

地獄篇三部作

まだ存命中の大西巨人による唯一の未発表作品だという。
野間宏に、これが発表されたら、君も『近代文学』同人も、文芸ジャーナリズムの世界では生きてはいけなくなるだろう、と言われた、というのが触れ込み。
 問題の「第一部笑熱地獄」。いやー面白いし、とてもリアル(笑)。さすがである。まだ第二部を読んでないというのに、その構成主義的な美学にまずは感銘し、また、その内容の「卑俗さ」といい、これは私小説というか、暴露系というか、ほとんど直接名指しで、うんぬんかんぬんというのも、ありそうで読んだことがない。
 匿名による中傷の手紙といい、原稿依頼をだれそれがいかに断ったかとか、私怨のようで、読んでいて笑えるところ、これは何だと思えば、やはりその名前の変換である。「泣村死一郎」とか「汁菜輪蔵」とか、よくもまあテキトーで滑稽な変換をするものだ。
 ほとんど落語・漫談調で、当時の『近代文学』同人がこの小説をどのように危険視したかということすら、いまより想像して(当事者にとっちゃたまらない、決断だったのだろう)、悪いがついニヤついてしまう。
 巻頭句にストリンドベリの「幾つかの御力が、滑稽を惹き起こす」という、出典はsくんにでも聞けば分かるかもしれないが、その言葉すら、滑稽味を帯びてくるほど、ふざけている。
 調べると、この非(?)小説は、『神聖喜劇』より前に書かれている。
なんか、腑に落ちるところがある。
 夢野久作もそうなのだが、福岡って、本当にこの手のふざけが好きだな、と思う。私も好きなのだが。そうして、孤立する。厳密でありながらフザケているというのは、以前もなにかの折りに書いたことがあるが、というか、ずっとそう書いているような気もするが、まったく、しょうのない、風土性だろう、としか思えない。
 ま、九州人が全員こんなのでは毛頭ない。本当に厳格なウルトラファシストの教師もいたし、そいつに私は学校を追い出されたものだった。ま、一時は頭割りにでも行くか、と思っていたが、じいさんだったし、以後、二度と会うこともなかったし、世の中にはもっとむかつくやつもいることを知っていくようになった。
 
 このような九州的な「反知性的」な知性のようなものは、実際、なかなか分かってもらえない。このような笑いや滑稽味を分からないやつは単に愚鈍なのだが、どうにもそのような愚鈍な方々には、まさかそれが笑いであるとは到底想像もつかないらしい。まあ、文化の違いだな、としかいいようがないな。いや、やっぱ愚鈍は愚鈍だ。

 それにしても、ふっと思うのは、あの九州人の異様な「速さ」「せっかちさ」ってなんだろう。あるひとは、あれはやはり日本というより、韓国の時間感覚ではないか、と。まあでも、こないだソウルに行ったが、そしてまた今月末行くことになったが、案外そうでもなかった。ソウルはむしろ東京とか仙台に近い感じがあった。
 釜山にむかしいったことがあるが、よく覚えていない。もしかしたら、韓国南部、とかには近いかもしれない。

うーむ。ところで上海はこちらはせっかちだったかもしれない。というか、むっちゃ、せっかちだったかな。だから、あれか、緯度かもしれん。緯度をたどると、あるいは気候でいろいろ比較すると、共通するかもしれん。