アジア海道史…マレー
(承前)
日本史というとき、「日本」国号以前ないし「日本」国域外との関連を無化してきたことが、「近代日本」の歴史学であったとすれば(むろん、このようなイデオロギー的論難などゆうにかわす大学者は露伴なり熊楠なりいくらでもいる。)、もはや今後は、東アジアのみならず、北東アジア、東南アジア、南アジア、環太平洋、すべてを視野にいれて考えなくてはならない。そして、すでにこの作業はとうにはじまっている。
ただ、こうした視野を保持するには、専門分化されたアカデミズムでは非常に厳しい。というか、「官学」的な形式ではもともと無理だろう。
「民俗学」も、「官学」の外ではじまった。いや柳田國男は「官学」としてはじめた、などということは、言説を出自に還元する過ちを犯している。
契機はなんであれ、柳田は「官学」ではなく、それをいうなら「国学」を再構築したかった、すくなくともその動機の方が強かったことは、結果が示している。
むろん厳格な実証主義も必要である。が、それがすべてでは毛頭ない。
最近、宣長や白石や、あるいは古中世の文献を渉猟するにつれ、「おもむくままに」つまり「随筆」が、一番、よいのではないか。と思うようになってきた。
着想やひらめきを、実証の手続きなしに放出することへのためらいとは、結局、吝嗇でしかないのではないかな、と最近はとくに思う。というか、しつこいが露伴や熊楠は本当にすごい。なにがすごいって、その自在さである。
忘れないように、露伴全集38巻では、日記のなかに近畿紀行が記されていて、打ちふるえた。それにしても、露伴全集はいつになったら、読み終わるのだろう。
紀行文の練習もしないといけない。旅行すると、つい調べものにはまってしまい、自分の見聞を根拠づけようとして、ついに書けずじまいということが多い。
先日、長崎で土神堂にいったが、道教風に祀られていて面白かったのだが、この土神と土蜘蛛とが関係あるような気もする。
いやなんでそのように思ったのかといえば、ゆっくり散歩したのは、実に、高校二年で長崎の学校をやめて以来で、以前いったときは弔いでいったから観察もできなかった。
今回は、じろじろ街行くひとの顔や雰囲気を眺めることができた。
かつての友人に似た顔もいて、そのような種類の顔は、久しく見もしなかったし、ひとりおじさんで、インド人かイラン人のようにも見えるのだが、名札が日本姓名であったりして、そのような種類の顔立ちはたとえば上海では見かけなかったし、またインドネシアともまた違う。
当然、韓国では一切、見かけなかった。
単に、戦後来日したインドイラン系の人なのかもしれないが、それにしては長崎にずっと昔からいそうでもある。
まあその方だけでなく、あらためて町を歩くと、明らかに他の都市との差異がある。東京や京都とはまったく別の。
といって、あまりに差異を期待すると、別にそんな差異などなくも見える。
石森「日本史」には、鎖国のおり、オランダ人イギリス人との混血児は、ジャカルタ(バタビア)へ流されたとある(1635)。酷いことをするのが徳川幕府。それはともかく、なぜジャカルタだったのだろうと思えば、オランダか。フィリピンだとスペインだからか。
いま、フィリピンについて調べると、マレー人がメインとある。
マレー人については、以前、tの彼女のhというのを思い出すが、マレー系文化についても調べないといけない。嗚呼。
さっきのおじさんもインドイラン系というよりマレー系というのがいいかもしれない。
自分の落ち度でもあろうけれど、いままで読んできた本で、マレー系文化と日本史とを絡めた本は見なかった。
中国朝鮮は当然日本と深い関係にあるのはもちろんとしても、いわゆる南方系文化もかなり入っているのもたしかだろう。
ただそれがインドネシアやインドに飛ぶのはいいとしても、その手前のマレーつまりフィリピンを見落とすのはまずかった。